研究課題/領域番号 |
15K01914
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研究機関 | 名古屋工業大学 |
研究代表者 |
川島 慶子 名古屋工業大学, 工学(系)研究科(研究院), 教授 (20262941)
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研究期間 (年度) |
2015-04-01 – 2019-03-31
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キーワード | マリー・キュリー / ジェンダー / 放射能 / ロール・モデル |
研究実績の概要 |
当該年度は、一昨年度よりパリで閲覧し、筆写あるいはタイプ打ちのみが許された、終戦直後の湯浅年子(マリー・キュリーの孫弟子)とレデリック・ジョリオ・キュリー(マリー・キュリーの弟子)との往復書簡について、日本語で論文を発表した。これは各方面から反響を得た。この文書については、介護などのためにフランス出張ができなくなった私に代わり、招へいを依頼したパリ大学オルセー校のダニエル・フォーク氏が、パリのキュリー古文書館でこの往復書簡をタイプ打ちし、日本に来てレクチャーを行ってくれた。フォーク氏のおかげで、書簡のほぼ全部を手に入れることができた。また、日本でのフォーク氏との討論により、フランス側から見たこの文書の意味を理解することができた。昨年度は日本語で発表した論文の英語版も完成していたのだが、フォーク氏との討論の結果、フランス側からの見方についても論文に盛り込むことが妥当であろうとの結論になり、次年度に英語論文の大幅な書き直しをすることを決定した。 やはりキュリーの孫弟子にあたるビアンカ・チューバについては、チューバを直接知っている、1981年度のノーベル化学賞受賞者ロアルド・ホフマン博士から来日の際に直接、チューバについてのインタビューを行うことができた。先のフォーク氏からもチューバについての貴重な資料の提供を受けた。 フォーク氏からはさらに、キュリーの弟子ではないが、キュリーの次に女性の大学教授になったポーリーヌ・ラマールもまた、本研究に加える意味があるのではないかと示唆され、情報提供を得た。ラマールにも女弟子がたくさんおり、ロールモデルとして貴重な人材であることが判明した。 そのほか、山口大学の男女共同参画室から、本研究のテーマ、特に女の弟子を育てた女性科学者という側面からマリー・キュリーについての講演を頼まれ、これを行った。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
マリー・キュリーの女弟子についてのデータベースはおおむね作成できたので、これは計画に沿っている。日本人孫弟子の湯浅年子については、パリのキュリー古文書館で、思いもかけなかった文書を発見することができ、日本語で論文を発表した。これは予想外の収穫である。ダニエル・フォーク氏の協力もあり、湯浅については非常に順調に研究がすすんでいる。山田延男についても、湯浅とともに、研究ノートを発表で来たので、おおむね順調といえる。ビアンカ・チューバについては、ロアルド・ホフマン博士およびその弟子で女性初の科学アカデミー化学部門会員からも情報を得たが、論文になるほどのものはまだ得られていない。ラジウム研究所そのものについては、介護などでなかなかパリに行けないことから、こちらの研究は遅れ気味である。
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今後の研究の推進方策 |
先にも書いたが、パリ大学オルセー校のダニエル・フォーク氏が、キュリー古文書館の湯浅=ジョリオ往復書簡をタイプ打ちし、日本に持って来てくれたが、その時の討論で、フランス側から見たこの文書の意味についての再考、およびジェンダーの視点のさらなる協調を促された。これにより、すでに昨年度英語で完成していた湯浅文書についての論文を大幅に書き直す必要が出てきたので、最終年度はこれを修正して完成させたい。 また、平成30年度は最終年度なので、昔の科学研究費で義務だった報告集のような形で、マリー・キュリー本人を含め、その女弟子、湯浅など幾人かの孫弟子、などを含めた、データベースよりはもう少し情報をいれた研究者別リストおよび人間関係表を完成させたい。 あと、これは介護の状況次第であるが、できれば今年度中にパリの化学史学会でこの研究について発表したい。特に湯浅文書は終戦直後の日仏の科学研究の交流や、キュリー流のフランスの研究スタイルと、当時の日本で主流であったドイツ風の研究スタイル、あるいはそのあと日本で主流となるアメリカの研究スタイルとの対立という問題も含み、ジェンダー、科学両方の場面で非常に重要な資料であるから、これについてフランスで発表することには大きな意義があると考える。 また、昨年度に引き続き、ロールモデル問題の啓発という意味でも、このテーマについて、山口大学や名古屋の女性会館などで行ったような講演の申し入れがあれば、積極的に受けたいと思う。
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次年度使用額が生じた理由 |
最初は私がフランスに出張して、パリのキュリー博物館古文書館にいくはずだったが、介護のために行くことができず、代わりにパリ大学のダニエル・フォーク氏を招へいした。その場合、名古屋とパリの宿泊費や日当などの差額などから、私の渡仏よりフォーク氏の来日のほうが安くついたので、その差額などが次年度使用分として残った。
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