本研究は、ノーベル賞を二度受賞した後のマリー・キュリーのキャリアの中でも、とりわけいままであまり注目されてこなかった指導者としてのマリー・キュリーの側面に光を当てた。ソルボンヌ大学理学部教授だったピエールの死は、マリーが夫の後任としてフランス初の女性大学教員の地位をもたらした。当時、「放射能」の講座で授業できるだけの男性科学者がフランスにいなかったからである。そのことは自動的に、女性教師のマリーが科学を志す男女の学生達の「指導教員」になることを意味する。これもフランス初のことである。マリーの教え子は世界に広がり、その後の放射能研究の発展に大きな足跡を残した。そしてまたそれら教え子の弟子たちもまた、なんらかの形でキュリーの研究スタイルを受け継ぎ、これを継続していったのである。 特にラジウム研究所所長としてマリー・キュリーの名声は世界に広がり、フランスのみならず日本や中国からも複数の研究者が彼女に師事した。これらの弟子はのちに本国に帰ってから、その国の科学の発展に力を尽くした。中でも女性たちにとって大いなるロール・モデルであったマリー・キュリーの存在は、若い女性学者にとって自分たちの将来に希望を持たせるものであり、彼女たちの科学者としての業績は、男性の弟子に全く劣らないものであったことが判明した。ここからも、男女の科学者に対する教育者としてのマリー・キュリーの資質もまた、科学者としてのそれに劣らず、素晴らしいものであることが判明した。 また本研究では、直接の弟子だけではなく、孫女弟子にも注目した。ここから、日本人初の女性物理学者湯浅年子や、有機化学の変革者と言われたビアンカ・チューバなど、非常にユニークな女性科学者がそこに含まれていたことも判明した。
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