哲学研究の専門分化が進んだ現在、カントの批判哲学は多くの場合、理論哲学、実践哲学、美学、目的論という領域に分かれてそれぞれに研究されている。本研究は、こうした領域分化によって見失われがちな体系的連関を視野に収めることを目的としていた。本研究は同時に、哲学研究が、アリストテレス、デカルト、カントといった大哲学者の著書(の一部)に閉じこもり、哲学全体を見据えたものではなくなっているという批判も意識した。カントの哲学を第一の研究対象として据えているとしても、本研究は哲学そのものの研究に貢献することを意図した。そもそも哲学研究と、過去の哲学者が著した書物についての研究とは、決して背反する事柄ではない。哲学研究の外部から、またカント研究の外部から寄せられる批判に対して、本研究は、哲学的意義をもつようなカント研究の実例を提示することによって答えてみようと目論んだ。 こうした目標に達するため、中野裕考、山蔦真之、浜野喬士の三名は、それぞれの得意分野である理論哲学、実践哲学、美学・目的論を出発点としつつも、その外の領域へと研究を進めた。中野裕考は、「あらゆる存在者は一、真、善である」という中世存在論の基本テーゼに関するカントの意外な高評価に着目した。カントはこのテーゼに現れる「一」「真」「善」を存在者そのものの特性としてではなく、対象についての我々の認識仕方の特性として解釈していたことが明らかになった。これによってカントと中世形而上学との間の連続性が見出されたと言える。山蔦真之は、美と崇高という美的価値のうち、一般に理解されている崇高よりも美こそが善という実践的な価値との親和性をもっていることを強調した。浜野喬士は、前批判期以来『判断力批判』にいたる「天才」概念の発展を後づけることから批判哲学の体系的連関を素描した。
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