ヨーロッパにおけるジャズ受容がアメリカにおけるそれと端的に違う点は、それが1917年に第一次大戦参戦のためパリにやってきたニューヨーク・ハーレムの黒人部隊によってはじめてヨーロッパで「生」で演奏されて以来、当初より「芸術」として受け入れられてきた点にある。時期的にこれは、政治上は第一次大戦によって、音楽史的には無調や未来派のノイズ音楽によって、19世紀的なヨーロッパ秩序が根底から揺さぶられ、いわばヨーロッパが政治的にも文化的にも自信喪失状態にあった時代にあたっていた。つまりジャズはアメリカという新たな世界ヘゲモニーのシンボルであり、旧世界にとって新世界から与えられた活力剤であると理解された。ストラヴィンスキー、シュールホフ、ミヨー、ラヴェルなど戦間期にジャズに熱中した作曲家は枚挙にいとまがない。彼らにとってジャズは、ピカソにとっての黒人芸術と同様のフォービズム的活力を意味していた。こうした最初期のジャズ受容を通して、例えばすでに戦前にあってチェコは多くのジャズ演奏者を輩出し、またフランスではジャンゴ・ラインハルトのような一級の音楽家が生まれ、こうした土壌の上で戦後のパリはジャズ受容のヨーロッパにおける拠点の一つとなり(マイルス・デイヴィスの創作に与えたパリ滞在の影響、あるいはバド・パウエルのようにパリに活動拠点を置いたアメリカの音楽家など)、またチェコからはミロセヴィッチ・ヴィトウスのような画期的な音楽家が生まれ、あるいは戦争直後のウィーンで進駐軍を通してジャズに触れたジョー・ザヴィヌルのように、アメリカに逆輸入されてアメリカにおけるジャズ史に甚大な影響を与える人物も出てきた。さらに戦間期ヨーロッパにおいてジャズに触れ、後にアメリカへ亡命して、当地で主としてマネージメントの部分でジャズ史に絶大な貢献をしたアルフレッド・ライオンのような人物も忘れてはならない。
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