日本の近代文学は、明治以降、十九世紀末の英米で出版された、ダイムノベルあるいはペニードレッドフルと総称される、主として無名作家たちによる作品で構成される廉価版小説から多大な影響を受けてきた。本研究では、従来あまり知られていなかったこの分野に焦点を当て、当時の文士たちがいかにして、数ある廉価版小説から優れた原書を選定し、巧みに構想を抽出して自作にとり入れ、名作を編み出したのか、その翻訳や翻案の過程を検証し、それらの作品が後代の日本文学に与えた影響の一部を明らかにした。 特に尾崎紅葉に関しては生誕150年ということもあり注目される中で、代表作『金色夜叉』も連載から120年という記念すべき年にあたったことから、その成立背景と廉価版洋書からの影響関係を整理し『書物學』に稿を寄せ、港区で講演も行った。また、黒岩涙香に関しては近年再注目されている『巌窟王』の原作を、涙香が廉価版で確認していたと考えられることから、デュマという文豪による有名作品であっても、英語に訳された折に廉価版に収められた点にもふれ、重訳としての影響も分析した。そして廉価版小説から得られた構想が、いかに日本文学の重要な礎を築いたかを浮き彫りにした。 また先の年度から『東海大学紀要 文学部』に分載している、Charlotte M. Brame原著の長編小説Dora Thorne の翻訳を続けることにより、末松謙澄が明治二十年代初めに翻訳し、出版した『谷間の姫百合』における変換がどのような方向性を示すのかを分析し、同時代の貞女神話がこうした翻訳にも顕著に表れていたことによって、文学における訳者の、読者に向けられた教導的な意義を明らかにした。
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