本年度は研究期間の最終年度に当たり、期間を通じて継続してきた小早川能久著『翁物語』(写本)を主たる資料として研究を実施した。 『翁物語』は、能久が師匠である甲州流軍学者小幡景憲から聞書きした内容が主たる素材となっており、成立は能久の高松藩出仕後と見られる。今回は永禄十二年(1569)に後北条氏と武田氏の間に勃発したいわゆる「三増合戦」の評価をめぐる記事から、三浦浄心著『北条五代記』(寛永十八年〈1641〉初版)の考察にも及んだ。本書はタイトルが示すように小田原後北条氏の盛衰を扱い、仮名草子時代の初期軍書として周知の書である。『五代記』の版本を読んだ幕臣向井直宗は、内容に後北条氏に有利な偏向や歪曲があるとして激怒し、景憲に不満を訴えた。実は直宗は『五代記』の内容を誤解して批判しているが、その時のやり取りを、同席していた能久が書き留めたと見られる。『五代記』全編を通じて、没落した後北条家の家臣であった浄心が後北条氏に加担する傾向があることは否定できない。ただし、北条氏康を理想化する局面においても、実名を出さないが敵対する岩付城主太田資正を思わせる人物を登場させ、戦国時代の常ではあるが、内応と離反を繰り返す当時の関東地域における国衆の実態を踏まえた虚構を仕組んでいると考えられる。ここに、実証的な意味において史実に反する面はあっても、武士としての理念を重視する近世軍書作者の創作意識を見ることができる。武田家の視点で書かれた『甲陽軍鑑』にも、立場は相違しても同様の傾向が看取されることを指摘した。 従来能久の伝記は、小早川秀包の三男という名門の出身ながら生没年も含め不明な点が多かった。調査を進めるうちに、毛利家を離れ江戸で景憲に入門、水戸藩と高松藩に仕えた能久の生涯につき新知見を得るところがあった。こうした近世初期の軍学者の在り方については、今後も追究する予定である。
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