本研究はフランス19世紀前半に出現した三人称レアリスム小説の成立を、時代の状況に関連させながら、テクストの言語学的分析により実証的に検討することを目的とする。1920年代の歴史小説の流行が、散文作品の演劇的構造を可能にしたのに続いて、1930年以降に発表される3人称レアリスム小説においても、「語り手」と「聞き手」が舞台上で演じられる事件を評価する、という演劇的構造が認められることを明らかにした。 ユゴーの『パリのノートル=ダム』(1831)は中世のパリを舞台とした歴史小説であるが、頻繁なパリの建造物についての歴史的解説は現在時を軸として語られ、舞台の客席の「ここ」「今」が物語の基盤となっている。バルザックの1830年発表の小説群においても、ナポレオン戦争の記憶を色濃く残す当時のパリの社会を描き、市民である「語り手」と「聞き手」によって観察・解釈される。 このような舞台の観客としての「語り手」の有り様は、スタンダールにも観察されるが、「観客」でありながら同時に登場人物としての性格を付与されている点が特徴的である。『赤と黒』(1830)は、ヴェリエールという架空の街の住人として物語冒頭で位置づけられる「私」によって語られるし、『パルムの僧院』(1839)には「語り手」である「私」の友人「ロベール中尉」が登場し、主人公ファブリスの父親である可能性を示唆される。スタンダールの作品における語りの一貫性の欠如はしばしば指摘されるところであるが、それは作者が自らを含む同時代社会を虚構として描こうとした事に起因するのではないか。 同時代を描こうとする「レアリスム小説」は、その企図として作家自身の虚構化を不可避的に含んでいた。後のフロベールの登場人物化した「語り手」や、モーパッサンの一人称への回帰への道筋はすでに定められていたと考えることができる。
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