漢から唐にかけての文学作品には、偶然に関わる表現が散見される。それは罪なき人に天は不幸をもたらさないという原則に反する事象が生じた際、合理的な解釈を強引に施すのに「偶然」という要素を持ちこんだと解釈できる。あくまでも原則に反する場合であるから、民間歌謡や小説、詩僧の作品において、より多く出現する。 曹植は「愁」を題材にした賦を複数書いているが、後漢以来増加する抒情賦の中でもそれは珍しい存在である。①曹植の詩には、同じ愁いの表現でも「憂」の字の使用が多く、「愁」とは意識的に使い分けている可能性があること、②曹植の詩賦にみえる「愁思」の語は、本来「失志」と結びつく語であったのが、「長門賦」以降は女性の愁いを詠む語に変質し、その意味での使用がほとんどになっていくこと、③「愁思」を含む「愁」を曹植は賦の題材としつつ、若干異なる用法によって、「失志」の内容に転換しえていること、すなわち、罪を得た身の曹植にとって、「愁」という題材は安全にものを言う(無罪の主張)仕掛けであった。 古代中国の家族観では、子は両親のそばにいて孝を尽くすことが重んじられ、孝を強調しすぎるとそれに対置される「不孝」がおのずと意識され、やむを得ない状況で離ればなれになった場合でも、「不孝」が「罪の意識」に結びついているようである。近世の家族の別離を描く白話小説・戯曲作品では、その多くが母子の感情を描き、より根本的で普遍的な肉親間の情愛をバックボーンとしながら、「不孝」や「罪」の意識が物語や登場人物たちをつき動かしていると考えられる。
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