研究期間全体を通じて、1940年代のアメリカにおける日本語学校がどのような教育活動を行い、第二次世界大戦後にどのように再生していったかを明らかにすることを目的としていた。最終年度は、具体的にクリスタル・シティ抑留所の日本語学校を事例に、戦中から戦後の日本語学校の教育実態について資料調査をもとに明らかにした。 クリスタル・シティ抑留所は、司法省管轄の抑留所の一つであり、1943年の第二回交換船で日本へ帰国する家族が抑留されていた。抑留所では1943年3月から日系人による自治会が制定され、自治会組織には教育部が設置されていた。教育部の組織を分析すると、1943年に設置された公立学校の日本語科では自治会から教師が輩出されていたこと、1944年から成人に対しては実業教育が施されていたこと、1944年4月から教育部の中に少年団や少女団が組織されていたこと、さらに、柔道課、角力課、剣道課など、日本の武道に関する課が設置されていたことが判明した。 次に教育部の各長を調べると、クリスタル・シティ抑留所では、ハワイからの被抑留者で開教使が中心となり教育を組織していたことがわかった。 続いて具体的な教育の実態を分析すると、少年団と少女団では、放課後に戦時下の日本国民としての精神教育が行われた。また日本人学校の中等科の弁論大会では、日本が戦争で勝利することを前提とした日本精神について論じられていた。自治会の総務であり、開教使である藤井龍智の教育論からは、日本精神を指導原理として、日本民族の精神教育を推進していたことが明らかになった。 戦時下の抑留所の教育は、戦後のハワイの日本語学校に影響した。ハワイで再開された日本語学校には、クリスタル・シティで教えていた教師陣が確認された。戦時下の日系人に対する日本語教育は、戦後の日本語学校の再生のプロセスのなかで連続性がみられることが明らかになった。
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