本研究では第一に、難波地域に関する近世絵図や近代地図を解読することで、古代に遡る地名や地形に関するデータを収集することに努めた。第二に、金石文を含めた中世史料を検討して、古代寺社や古代地名に関する手がかりを発掘することを試みた。第三に、江戸時代から昭和戦後期に至る難波津の位置をめぐる研究史を追跡し、解決への手がかりを探った。 第三の研究史の追跡では、近世の『摂津名所図会大成』や大正期の『大阪市史』が重要な指摘を行っていること、昭和戦後期における天坊幸彦・瀧川政次郎・山根徳太郎らの論争が貴重な成果を残していることを確認した。こうした議論を踏まえると、古代の難波津は摂津国西成郡御津里の御津寺(大福院)周辺に存在した可能性が高く、近年に至る研究史をさらに吟味することで、北浜(高麗橋)説への反論を行うことが可能であるとの感触を得た。 本研究で収集した近世・近代地図のデータや中世史料データを利用しながら、行基が摂津国西成郡津守村に建立した寺院について検討した。善源院は現在の都島区善源寺町(近世以降は東生郡に所属するが、中世には西成郡に所属した)に創建された寺院、難波度院は難波大渡(難波渡・葉渡・柏渡)に置かれた寺院で、のちの渡邉地域(現在の天神橋付近)に所在したと考えられる。枚松院はかつての福島区平松町に所在した寺院である。讃楊郷にあったと思われる作蓋部院の位置は不明であるが、讃楊が讃場に誤記され、これが三番と書かれるようになったとする『摂津志』の説が一考に価する。 行基が西成郡津守村に設置した寺院はすべて淀川(大川)以北の天満砂堆に所在したことになり、この地域の重要性がこれまで以上に高まることになった。以上の研究成果は古代難波地域像の再構築に大きな手がかりを与えることになろう。
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