研究課題/領域番号 |
15K02865
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研究機関 | 九州大学 |
研究代表者 |
高野 信治 九州大学, 比較社会文化研究院, 教授 (90179466)
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研究期間 (年度) |
2015-04-01 – 2019-03-31
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キーワード | 認識 / 語彙 / 犯罪 / 障害 |
研究実績の概要 |
病者、障害者に関するまとまった史料類の存在がないなか、本年は民衆世界での人間観や病者・障害者の認識の関係を探るため主に二つのことを行った。 一つは江戸時代の辞書類の分析である。分析対象は『俚言集覧』とした。本辞書は江戸後期(一部、明治期)に、方言など地域的にも広範に卑俗性の高い語彙まで視野に編纂され、民衆世界での病者・差別意識の析出にふさわしい性格を持つ。現在の障害分類は、身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む)の三分類を基本とするが、前近代の障害は医学的、生理学的な理由が判然としない時代性が付随し、病者との区別も意識されていなかった。ハンセン病(癩病)が近年まで国家的な隔離法の対象とされ、その差別の社会化は典型例だろう。したがって辞書分析にあたっては、普通の人(人間)ではないという観念が反映された語彙を身体性、知性、精神性という枠組みで、現在の障害認識より広い角度から採録した。その結果は、今後、他の辞書類や民俗世界、民衆心性の分析などともリンクし位置づける必要があるが、病者・障害者を取りまく他者の眼差し(認識)が、差別意識を普遍化する状況が指摘できる。この点については関連論文を書いた。 二つに、犯罪者記録(犯科帳類)を手がかりにする方法を実践した。現在でも、知的ないし精神障害と考えられる人物が犯罪者として収監される事例がみられる。責任能力と称されるものはその弁別の指標だが、前近代では障害者が犯罪者扱いされる事案は多くあったと推測する。いわば犯罪と傷害の関係性について検証するが、犯科帳類の残存数が多い長崎の調査を行い、町乙名の記録類なども分析対象に調査した。この方面の研究手法は未確立で史料分析も困難を伴うが、今後も地域を広げつつ継続し行う必要がある。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
これまで主に領主側史料を収集、分析してきたが、人間観の分析という立場から、宗教問題の解析が必要と考え、とくに心学書などのいわゆる通俗道徳と呼ばれる価値観教化の意図を持つ史料分析を進めている。 しかし、近年、通俗道徳論の見直しが提起されつつあり、儒教分野のみならず仏教分野でかなり早い段階での通俗道徳の形成が指摘されている(通俗道徳と禅心学の関係に関する議論など)。ただ、その際、武士層や上層の民衆層(地域指導者)が主な享受者とされ、近世中後期における通俗道徳の民衆世界への広範な浸透の状況とどのようにつながるのかは十分な検証がなされた段階にはなっていない。儒教を中心とした宗教観念に支えられる通俗道徳は、勤勉、正直、倹約などがうたわれ、そのような道徳・倫理観から逸脱したものとして、障害者が認識されていたことが、これまでの申請者の調査からうかがえる。したがって、宗教と人間観の近世日本的なあり方は、今後に注意深くみていかなければならず、儒教と仏教・神道など、いわゆる三教一致的な宗教環境のなかでの人間観や障害観の形成については、早急な結論提示は控え、この作業を継続しつつより広い視野から、別手法のアプローチも勘案し民衆世界での人間観や障害の問題分析に少し傾注した。先述したような辞書類や犯罪記録などによる民衆世界における人間観と障害観の関係性の考察は以上のような理解に拠る。
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今後の研究の推進方策 |
これまで指摘したように、近年の研究状況にも鑑み、いくつかのアプローチを平行しつつ研究の推進を図る必要がある。とくに二点に留意したい。 一つは、述べたような民衆世界における人間観と障害認識の形成や展開についての考察である。これには、民衆も広範に接するようになった文学作品(仮名草子類など)に加え、辞書類からの語彙検出、民俗宗教や道徳書にみえる宗教観念、障害者と目される犯罪事例の収集などが想定される。ただし、かかる方面の分析が本研究の大きな柱になるものの、障害の実態や認識について通時的かつ明確に応える史料類には恵まれない時代性がある。近代と比較して前近代の障害者研究が遅延している理由であり、そもそも障害者・病者などの認識が未成立のなか、普通の人ではないという基準性(「あやし」などと表現される)から差別意識が社会化・普遍化する。いわば差別は他者の認識により創り出されるともいえる。このような観点から、改めて民衆世界での人間観と障害をめぐる検証を進める必要がある。 二つは、障害認識が社会化され、当事者たちによって自覚されない背景の一つに、病気と障害の弁別の不在があろう。現在では障害と考えられていたものが、医学の進歩で病気と認定される症例が多いというが、前近代では先述した不道徳性や憑きものなど、非人間性や不自然性・超常現象など、文字通り、あるべき常態からの逸脱や超越などが障害認識の基底をなしていた可能性がある。したがって、前近代の病気・病者をめぐる意識について障害観との関係で考察する必要があろう。
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次年度使用額が生じた理由 |
健康上の理由(数年前からの大腸癌・肝転移の罹患、再発による手術、化学治療などによる体力低下の問題)があり、十全な調査は行えなかった。加えて先述した宗教関係の見直しに起因する史料調査の方向性の再検討などもあり、当初計画の予算を結果的に繰り越すことにした。
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次年度使用額の使用計画 |
上記の病状の定期検査では再発の兆候は現在のところ認められず、体力も回復の兆しがある。また、宗教関係も含め、先述したような民衆の心性を探る調査や辞書、医学関連の調査の方向性も明確になってきた。とりわけ、障害認識の社会化・普遍化という観点は研究の主要な立脚点となり、文芸書、道徳書の調査を含め、より広範な史料調査を進め、領民・庶民階層の人間観、病者・障害者観の析出を目指す。
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