研究課題/領域番号 |
15K02865
|
研究機関 | 九州大学 |
研究代表者 |
高野 信治 九州大学, 比較社会文化研究院, 教授 (90179466)
|
研究期間 (年度) |
2015-04-01 – 2019-03-31
|
キーワード | 仏教説話 / 業病 / 医療 / 祈願 |
研究実績の概要 |
病者、障害者に関するまとっまた史料類がないなか、民衆世界での人間観や病者・障害者の認識の関係を探るため、29年度は主に仏教説話の分析を試みデータ化を踏まえた論文を作成した。 28年度は民衆の語彙を集成した近世辞書に着目し、障害表現の収集という基礎作業を行った。これは専ら障害者認識が民衆世界における他書の眼差しのなかで形成されるという側面に注目したものであったが、当事者の実体や認識に迫る必要がある。史料実証は難しいが、仏教説話分析の理由は、重篤の病や障害は治癒が困難でいわば個性化しており、それは罪の報いという宗教的認識のなかで捉えられる可能性があること、また説話収集者である僧は直接に当事者から懺悔、告白という一種の宗教行為を記録、記憶し説話化した場合がみられること、この二つの理由による。かかる仏教説話の分析よりおよそ二点が確認できる。 一つは、仏罰の報として捉えられた様々な障害(「不具」などと表現)が、仏への祈願により回復したという内容などは、現実性に乏しいだろうが、各説話には時期、地域や話者の情報が付記されるものが例外ではなく、病者・障害者の実体や思いを一定度すくい取ることができた。二つに、様々な医療行為の実相の確認である。各説話には医療行為に意を尽くしたが結局治癒しないという表現がみえる。それは、近世民衆が様々な医療行為を受診できる環境ができつつあったことを物語る。しかし、それでも重篤な不調はいわば「業病」として宗教的な行為の対象になるが、これも広義の医療行為であろう。 29年度は『武士神格化の研究』(研究成果公開促進費交付)の刊行もしたが、戦闘や病気などで落命また障害をおう武士が神格化され、これが治癒信仰の対象となる。仏教説話などとも勘案すれば、前近代の衛生・医療環境のなか、障害は必ずしも例外ではなく、民衆世界に常態化していた可能性を示そう。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
障害という認識は、近代における経済的自立を前提とした社会観、人間観の形成のなかで成立したとされる。したがってそもそもかかる認識がないか、もしくは稀薄な近世段階で、史料収集の困難性が想定された。それでも、心学書や文芸書とならび、ある意味でその実体がリアルに表現される説話、とくに治癒困難の原因を宗教世界に求める傾向が強かった前近代の説話の分析は相応の成果を収めた。とりわけ、戦国時代に続く近世日本は泰平(平和)な時期が続き、かかる時代環境は「命」への関心が高まり、養生思想なども展開する。健康と対局にある重篤な病・障害は、生活を脅かし場合によっては落命にも繋がりかねず、このため治癒が強く望まれる。仏教説話から民衆を中心に病・障害の実体や考え方を抉り出せ、「命」への関心とともに、データ化も試みることができた。 現代は高齢化社会が進行する時代とされ、老人は身体的、知的、精神的な機能が失われる傾向が強く、障害を持つ存在に徐々に推移するとも捉えられる。仏教説話にはかかる不自由性を持つ高齢者やそれに対する周囲の対応も描かれる。いわゆる姥捨て山という民話に表象される問題を、病者・障害者が持つ可能性も読み解ける。前近代の障害をみることは、現代の社会事象の考察にも繋がろう。 ただ「仏教説話分析にあたっては、宗派性を考慮できず、サンプル(対象説話)数も限られている。対象説話の増加と宗派や時期による傾向も視野にいれるべきだろう。これにはやはり時間がかかる。 先述した『武士神格化の研究』は、本来、本研究課題にリンクすることを想定していなかったが、障害を患い病死した武士が民俗神として民衆世界にて広く信仰対象となるのは、本研究にとりきわめて有益なデータである。しかし、かかる問題も十分ではなく、本研究の障害、病の視角から洗い直し、さらなるデータ収集をはかる必要がある。
|
今後の研究の推進方策 |
近世の民俗語彙(俚言)を集成した辞書や話者情報などにより相応の歴史性もある仏教説話などを素材に、近世日本における障害をめぐる基礎的なデータ収集と分析を行ってきたが、先述のように不十分であり、さらにサンプル収集などによるデータの充実を目指す必要がある。 また、新たに医療問題も視野に入ってきた。述べたように仏教説話には近世民衆が様々な医療に接していた可能性がみえる。近世は泰平のなか「命」・健康への関心が高まり、これに応じ医療行為も展開したが、この時代は、西欧の医学知見が蘭学を通じ流入する。いわば解剖学的立場からの医学思想により身体観は大きく変わったと考えられ、それは疾病・障害に対する見方に影響を及ぼした可能性もあろう。これは仏教説話などにみえる業病観などとは次元を異にするかも知れないが、かかる新しい医療、医学の恩恵をうけた者は限られた階層であろうことも想定され、依然として、「不具」観は強かったかも知れない。 このような医療・医学の社会的な位相のなかで、人間観、疾病観、障害観がいかに変化したのかを考えるのは重要な柱だろう。そのため民衆の生活記録や医療関係者の日記類の収集、分析も不可欠である。 心学書などの道徳性、文芸書などの物語性、辞書や説話などの認識性、さらに諸方面の記録に拠る実体性など、可能性ある史料の点検作業により、民衆世界における障害の実体や意識に迫り、総合化するのが、本研究最終年度の主な課題である。 その上で、領主側の領民把握、いわば人別掌握の発想を、疾病、障害や賤民問題などを視野に捉え直すことも柱となる。いわば社会的有用性、生産者としての人間の差別化の思想を領主階層は持っていたのではないのか、それは領内支配、とりわけ領民の救済政策などに反映していた可能性はないのか、かかる点も考慮したい。障害・病者を通した人間観と民政の関連性思考への方向性である。
|
次年度使用額が生じた理由 |
(理由)健康上の理由(数年前からの大腸癌・肝転移の罹患、再発による手術、化学治療などによる体力低下の問題)があり、十全な調査が意図したように行えなかった。とりわけ、宗教関係の史料(仏教説話)の調査が不十分に終わった。加えて出版助成による上梓(武士神格化の研究)は、本研究テーマにも有効であったが、仕事の重なりは、健康にさらなる負担(甲状腺機能低下、低血圧など)ともなった。 (使用計画)まだ、体力回復が十分とはいえないが、定期検査の結果は良好で癌再発の兆候も幸い確認されてない状況が続いている。別欄に示したように、領民・庶民階層の病者・障害者観、さらに領主階層の人別掌握や民政の特質など、課題メニューはかなりにのぼっており、今年度が本研究の最終でもあるので、関連文献や史料収集を軸に、調査研究を推進かつ整理、総合化する。
|