今年度は、前年度の成果を受けて、内モンゴル自治区南部(フフホト~バヤンノール)から寧夏回族自治区(銀川~固原)の漢代遺跡の立地条件を実地踏査した。まず寧夏については、昨年度の踏査で積み残した固原戦国秦長城の付属施設とその立地を確認した。その結果、後世の漢代玉門関にあるものと大体同規模の城郭が付属しており、より後世の改変が加えられていないのであれば、固原が戦国秦の西方への出入口であり、漢代玉門関の原型を形成したと考えることも可能との結論を得ることができた。また同時にこうした場所に単なる防壁ではなく、通行行政をも担った関所のような施設が存在した点から考えて、周代以来の秦の形成と発展に与えた西方・北方との接触の歴史的意義が予想以上に大きいことも明らかになった。 内モンゴルのフフホトから包頭については、戦国趙の長城ラインを確認した。先行研究では、戦国趙の長城が漢代の河西回廊の長城と同一視され、異民族の侵入監視と防止を重視する傾向があったが、必ずしもそうではなく、山間部においては交通路を防御する機能が重視されていた可能性などが浮上してきた。 バヤンノール付近では、戦国趙から漢にかけての長城ラインと、その内側に位置した漢代の開拓地を実見した。漢は異民族から得た土地に、農耕が可能であれば移民を送り込んで都市を建設することで、外敵からの防御と増大する人口の調整弁としての役割を負わせたが、バヤンノールの沙金套海故城を実見し、文献資料などとも突きあわせた限りでは、農地の拡大が困難な場所についてはかなり柔軟な運用を実施していたことがうかがえた。 昨年度・今年度の実見とそれに基づく成果について、中国古代史の専門家に加え、衛星写真と実地踏査を組み合わせた研究を行っている歴史考古学研究者を招聘した討論会を開催して第三者的な視点から批評を受け、水準の高度化を実施したことを付言したい。
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