本研究の最終年度として、これまで実施した福井県若狭町藤井岡古墳、藤井岡三昧古墳、脇袋丸山塚古墳の調査成果をまとめるとともにとそれらの出土遺物を整理し、研究報告を作成することを主たる目的とした。発掘調査や測量調査図面のデジタルトレース作業や、出土遺物の写真撮影のほか、前年度以前から続く出土遺物の実測及びトレース作業、中でも藤井岡三昧古墳採集の家形埴輪の復元と3Dスキャナー計測に時間を費やした。 それにより、5世紀初めの藤井岡古墳では壺形埴輪と王陵系の形象埴輪が共存していること、同時期の藤井岡三昧古墳の家形埴輪はきわめて精巧に作られた寄棟造家形埴輪であること、5世紀前半から中頃に位置づけられる脇袋丸山塚古墳が墳頂部に王陵の影響を受けつつ在地的変容を遂げた囲形埴輪と柵形埴輪をもつこと、また、その前方部には墳丘構築前に設けられた埋葬施設とみられる特殊遺構が存在することなどが明らかになった。この遺構はその系譜が半島に求められるものと考察された。 そうして、これら中規模古墳の調査成果を、これまでに知られている若狭地方の古墳時代中期大型前方後円墳(首長墓)と対比させながら、その推移を検討した。その結果、5世紀初めの若狭で最初かつ最大の前方後円墳である上ノ塚古墳が極めて畿内的なのに対して、藤井岡古墳など中規模古墳には独自の地方との関わりが認められたこと。その後の5世紀中頃には、首長墓の突出性が薄れるとともに、向山1号墳や脇袋丸山塚古墳などが大和政権だけでなく半島や東日本地域とさかんな対外交渉を見せるようになること。さらに5世紀後半には首長墓そのものが大和政権にはない独自な様相を強く見せるようになるという過程がわかった。 こうして、中規模古墳の被葬者の活動が地域の動向を大きく規定していることが確認できた。その成果は研究報告書『中規模古墳の動態からみた大和政権の地域支配』にまとめた。
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