平成29年度は寛永期の成立とされる2種類(A型・B型)の官撰日本図にみえる武蔵・下総国境の位置について検討を行った。その結果、寛永国絵図(現存せず)の集成図といわれるA型日本図については、①古利根川―江戸川筋を武蔵・下総国境としていること、②この国境の位置は寛永国絵図の縮写図とされる「日本六十余州国々切絵図」(六十余州図)の描画内容に一致すること、③その一方で、合の川―渡良瀬川および新川通に囲まれた旧北川辺町域(現・埼玉県加須市)が武蔵ではなく上野に含められていること、④この国境の位置は六十余州図の描画内容と相違すること、などを確認した。これらの事実は、利根川中流域における当時の国境認識の曖昧さを改めて浮き彫りにするとともに、A型日本図の制作過程に関する通説にも検証の余地があることを示すこととなった。 B型日本図については現存する3種の写図の国境位置を比較した。その結果、①武蔵・下総国境の位置がすべて異なっていること、②その相違は書写年代の国境位置を反映したものとみられること、③旧北川辺町域についてはいずれも下総ないし上野として描く明白な誤りがあること、などを確認した。なお、B型日本図の下図とされる南葵文庫蔵「日本国図」についても調査したところ、①旧北川辺町域が武蔵に含まれていること、②その一方で同図の水系描写には明白な誤りが含まれること、を確認した。 本研究課題では利根川中下流域における国境変遷のプロセスの解明に取り組んできたが、少なくとも江戸初期の段階では国境位置の認識は必ずしも一様でなかったことが明らかとなった。従来、武蔵・下総国境の確立時期について諸説が乱立していたのは、このような状況を反映したものと考えられる。江戸初期の多様な国境認識が以降どのように一様な国境認識へと変化していくのかは、今後に残された検討課題である。
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