本研究課題全体の目的は,日本の農山漁村を対象として,田畑の一筆ごとに付けられた通称地名の流通範囲と変遷過程を解明することであった。本年度は後者の変遷過程に特に重点を置いた。長崎県平戸島の複数の集落を対象に,事例戸の1975年と2010年の両時点(文献資料の利用が可能な事例戸ではさらに1940年の時点も加えた)における全ての耕作地に付けられた個別名称を網羅的に把握し,それぞれの名称の変化と継承の実態を明らかにした。その結果,1975年では85例中67例,2010年では47例中19例が,従来の名称を継承したものであることが判明した。 以上から,現在ある農家が使用している田畑一枚ごとの通称地名のうち,半数程度は少なくとも二世代あるいは三世代以上にわたって受け継がれてきたものであり,残りの半数程度は耕地の借入,圃場整備,土地利用転換などの様々な契機によって変化を経たものであること,また名称自体は継承されていない場合でも,命名の仕方は継承されていることがあるという,おおよその一般的知見を得ることができた。また流通範囲については,ほとんどの場合,独立した農業経営体としての家族の内部でのみ通用していたが,繁忙期の農作業を手伝う相手先のものは熟知していることがある一方で,現在では家族の内部でも農業への関与が低い者はほとんどその知識を有していないという見通しを得た。 この研究は,田畑一筆ごとの通称地名という民俗語彙の変化と継承を通じて,農村の人々の生活や生業のあり方やその変遷,あるいは人間一般の空間認知のあり方を解明することにもつながると考えられる。
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