基幹的な産業部門から段階的に進めるという当初の構想に反して,十月革命後のソヴェト政府の下での国有化は,部門単位ではなく個々の企業・工場レベルで始まり,半年後には大半の大企業の国有化が宣言されるに至った。本年度の研究では,このように構想と現実の間にいちじるしい乖離が生じた原因を,ソヴェト政府の次の3つの政策にあることを明らかにした。(1)ソヴェト政府が労働者統制を,労働者が組織する工場委員会に企業家への命令権を与える形で制度化したこと。(2)地方のソヴェトや労働者組織に,労働者統制を拒否する企業家への対抗措置として,国有化の名目で工場を占拠・没収する自由を認めたこと。(3)商業銀行を国有化・統合することによって,資金供給の機能を国家に集中したこと。ソヴェト政府は,農民に土地の分割を認めたように,地方の労働者組織が現地の工場を自ら管理することを認めたために,下からの国有化の奔流が生じた。銀行国有化は,これらの動きに呼応する上からの一撃であり,企業による私的な資金調達を不可能にした。この過程で,最高国民経済会議は,設立時の想定に比してその権限を大幅に限定され,1918年春までに,工場のかなりの部分が労働者組織の管理の下にありながら,最高国民経済会議はそれらについてほとんど情報をもたないという状況が生じた。最高国民経済会議が導入した部門別の管理機関(グラフク)による工業管理の制度はソヴェト政府の内部でも大きな批判を受けたが,グラフクに伴う種々の弊害は,自由市場・私的商業・私的信用の積極的な利用という選択肢を除外したことの不可避的な帰結であった。以上の点は,ソヴェト政府による初期の国有化が,地方の労働者組織による分権的かつ急進的な工場占拠と経営者の権限喪失という実体的な基礎をもち,まさにそのことによって国民経済の解体を加速する作用をもっていたことを示すものである。
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