最終年度には、第1年度に公表した「1920年代ロシア農村の社会政治的構造(1)(2・完)」の原稿を拡充する作業をひきつづき続行した。その過程で副産物として独立させることのできる新しい論考を2点、論文として公表した。「『クラーク』と『勤勉な農民』――農村にネップはあったか」(『ロシア史研究』、第100号、2017年)と、「ネップと農村コムニスト」(『プロジェクト研究』早稲田大学総合研究機構、第13号、2018年)がそれである。前者は、1920年代ソ連において「勤労にもとづく富」はありえたか、という当時の根本問題のひとつを考察しつつ、ネップにおいて「勤勉な農民」の概念が成立できなかったことを、後者では、農村変革の主体である農村の共産党員が集団化の担い手としてどのような特殊性をもっていたかを具体的に考察した(ここではさらに、ロシアの学界でもおそらくほとんど知られていない1920年代の風刺画を若干枚、論述に利用した)。 全体として、1920年代における農民自治と農村統治の末端という2面をもつ村ソヴェトの歴史を追跡するなかで、1920年代史における村ソヴェト選挙の重要性を強く再認識するにいたった。詳細な研究の結果、次のようなひとつの結論をも得ることができた。1925年に農民自治の拡大の兆しが明確にあらわれ、下部の農村党員はこれに危機意識をもった。それに呼応する形で、スターリンは、早くも翌1926年3月に「小ブルジョアジー」を選挙から排除するよう要求した。その意図は同年秋の新選挙訓令において具体化された。選挙権剥奪が、農民の経営意欲を喪失させるほどに強化された。この農民への攻勢の過程でひきおこされた下部党員の跳ね上がりは、1928年以降の穀物調達危機下において農民を攻撃する主体が形成され、集団化の前提のひとつが創出されつつあったことを物語っている。
|