本研究課題は、近代君主制儀礼を視覚的に消費する集合的欲望・実践の拡がりが、君主制ナショナリズム形成にとってどのような契機を構成したのかという問いについて、日本社会の事例から再検討することを目的としたものである。最終年度の研究活動では、前年度に引き続き天皇家の実写映画の商品化過程と同時代人たちの刹那的な鑑賞様式についての資料調査を主に進めるのと併行して、研究期間を通して得られた諸知見について理論的に整理・綜合する作業を実施した。最終的に得られた主な知見は次のようにまとめられる。君主制儀礼の商業的スペクタクル化つまり諸々の視覚的商品を媒介して君主の祝祭に間接的に参与する集合実践の拡がりは、民族的アイデンティティ形成に対して反作用する契機を原理的に含みこんでいた。資本が提供した諸々の視覚的商品は、その商品特性と照応した祝祭体験――短期的に流通・消失する凡庸なイヴェント群の一部として当該の祝祭を刹那的に消費・忘却する体験の拡がりへと帰結した。祝祭実写映画の鑑賞者たちや祝祭ツーリストたちにおいて、当該の祝祭の一回性や歴史的・民族的文脈性を志向し感受する態度がしばしば欠落していたのはその端的な表れとして解される。つまり資本制的生産様式に組み込まれた視覚的祝祭経験が生み出していたのはどこまでも、(日常的に生成されては消失する)深度や熱を帯びない〈陳腐なナショナリズム〉の系列であって、伝統的共同体の祝祭が参与者たちに惹起した「宗教的想像力」と等置・代替できるほどの〈熱いナショナリズム〉ではない。本研究では、以上の知見を呈示することで、君主のスペクタクル消費を媒介した集合的沸騰の国民的現前、という研究史の有力な解釈枠組み(とりわけ「伝統の発明」論系列の枠組み)に対する一定の批判的視点を提供できたと考える。
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