第二次大戦後10年の日産自動車の労使関係を検討するなかで、臨時工や嘱託の問題を検討することによりその後の人員体制の形成に与えた影響を考察した。すなわち、全員加入の労働組合の規制力の及ばない労働者を臨時工や嘱託として登場させた。労働組合は当初明確な対応をとれずにいたが、職場における連帯の動きが組合を動かすことになり、本工化の流れができた。この背景には、臨時工には仕事の同質性のみならず、戦中・戦後の入社者と臨時工の入職プロセスに質的な相違が認められないことにあった。このためその後の人事制度の下ではその格差を正当化するための装置が発達することになった。
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