開拓使統治期の北海道の学校設置状況は地域の特性によって大きく異なった。開拓使札幌本庁は、士族等の集団入植が進む1872年ころから、入植移住地の地域整備の一環として、簡易な学校の設置を図った。一方、函館支庁管内は明治維新以前から和人の定住が進み、函館・江差・松前等の市街形成が進んだ地域には、1872年「学制」頒布時から本州以南同様の学区制導入を計画し、頓挫・挫折するに至った。郡部村落は漁場・和人居住地等として地域形成が一定程度進んでいたため、札幌本庁のような入植移住者対策のための学校整備の必要はなく、取り組みが遅れた。 入植移住地における学校設置が、学校普及策としてではなく、移住政策の一環であったことを指摘し得た点は新しい成果であると考える。また、それ故に地域基盤が極めて脆弱であった札幌本庁管内の入植移住地の方が早期に簡易な学校の普及が進み、地域形成がある程度進んでいた函館支庁管内では寧ろ後れをとるといった特有の状況が生じた点も実証的に明らかにし得たと考える。 最終年度は、以上の学校設置・普及状況を踏まえ、学校を維持していくという課題に地域がどのように関わるかを明らかにした。学校の設置・普及は一時的な地域の資金支出や官の補助により進んだが、その維持費にはある程度永続的な財源が必要であった。函館支庁では1878年以降に急増した学校の維持のため、地域に地所(国有未開地)を下付し、その土地利用から上がる収益を財源に当てる施策を実施し、この施策は札幌本庁へも波及した。同時に、実用的な教育を重視して農業・漁業等の「実地」教育実施を掲げるカリキュラム上の必要からも学校ヘの地所下付が進むこととなった。しかし、国有未開地を利用し、「実地」教育も兼ねる北海道特有の学校維持策は、中央政府の政争の影響、1882年の開拓使廃止と札幌・函館・根室3県設置等の変動のため、明確に制度化することはなかった。
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