学校保健とは学校が行う学齢期の子供の保健管理教育のことで、戦前は学校衛生と呼称された。その歴史については、これまで政府による学校衛生制度の歩みが通史とされた。そこで本研究では、明治16年に大日本私立衛生会という全国組織が発足し、全国各地域でも県・郡単位の私立衛生会が主体的・自治的に発足していたことに着目した。後者の地域私立衛生会と近隣の学校との交流と呼べる学校衛生活動を明らかにすることで、身体検査や学校医などの学校衛生制度が確立された明治30年代の前から、学校や地域には自治的・組織的な学校衛生活動があり、制度制定後も、それとは異なる独自の組織的な取組があったという仮説、換言すれば、地域と学校現場の学校衛生史という新しい歴史の一端を明らかにした。その意義を整理すれば次の2点である。なお、当初使用した「地方」の用語は、研究過程で「地域」と呼ぶに相応しい実態があったため後者を使用する。 第一に、地域には、明治政府が整えた学校衛生制度とは異なる選択肢があり展開した事例もあった点である。これは歴史研究としてきわめて重要である。たとえば京都では、明治31年の学校医制度の前に学校医建議案が浮上し(「明治期京都の学校医設置構想」2017.9)、大阪では、本来は治療しない職制である学校医にトラホーム治療を行わせる撲滅策が説かれていた(「学校保健史における地域私立衛星界雑誌の資料的価値」2018.3)。これは本研究が資料とした地域私立衛生会の機関誌:地域誌によってこそ解明できた点とも言える(同前)。 第二に、学校衛生史・学校保健史研究における、明治期:医学的―対象機:社会的―昭和期:教育的学校衛生というこれまでの制度史解釈とは異なる側面を明らかにできた点である。明治30・40年代であっても教育を重視する学校衛生論や活動はいくつもあった(「学校歯科衛生史と教育的学校衛生論の原点」2017.3)。
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