研究課題/領域番号 |
15K04244
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研究機関 | 上智大学 |
研究代表者 |
加藤 守通 上智大学, 総合人間科学部, 教授 (40214407)
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研究期間 (年度) |
2015-04-01 – 2019-03-31
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キーワード | ヒューマニズム / ギリシャ語教育 / サルターティ / ブルーニ / クリソソラス / ヴェネツィア / フィレンツェ |
研究実績の概要 |
本研究は、15世紀イタリアにおけるギリシャ語教育の導入過程を、ギリシャ語とラテン語の原典に基づいて、詳細に調査し、その全貌を明らかにすることを目指している。この過程において重要な事件は、フィレンツェの書記官長であったコルッチョ・サルターティによるビザンチンの碩学クリソロラスのフィレンツェへの招聘(1397年)であったことは論を待たない。しかし、その背景については、まだ十分に明らかになっていないが、1390-91に、サルターティの弟子である Roberto di Francesco di Dolcino RossiがヴェネツィアでクリソロラスとDemetrio Cidoneに知り合い、クリソロラスから短期間だがギリシャ語を学ぶことができたということはわかった。このことによって、浮かび上がって来たのが、当時の西洋文化においてビザンチンとの橋渡しをしていたヴェネツィアという国家の重要性である。 しかし、教育思想史の分野では、エウジェニオ・ガレンの大著『ルネサンスの教育』などに代表されるように、ヒューマニズム教育はフィレンツェに焦点を当てて、論じられてきた。したがって、ギリシャ語教育の導入に関しても、フィレンツェ中心の解釈が一般的であった。今回、ヴェネツィアに赴き、その歴史に関する研究を進めることによって、この解釈の一面性に気づくことができた。サルターティの弟子であったレオナルド・ブルーニはクリソロラスからギリシャ語を学んだのちに、「西洋で700年間忘れられていたギリシャ語を最初に習った」と豪語したが、当時のヴェネツィアにおけるビザンチンとの交流に鑑みた時、ブルーニの言葉(そしてそれに依拠したルネサンス思想史)から一定の距離を置く必要が認識された。 なお、クリソロラスが執筆したギリシャ語教科書であるErotamataについての研究も行った。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
ギリシャ語教育導入の過程について、学ぶ側の事情と教える側の事情の二つの面から研究を進めた。 学ぶ側の事情としては、フィレンツェにビザンチンからクリソロラスをギリシャ語教師として招聘したコルッチョ・サルターティ、そしてクリソロラスの素でギリシャ語を学び、『二コマコス倫理学』などを原典から訳したレオナルド・ブルーニの書簡に焦点を当てて、その思想史的背景を探った。実は、フィレンツェにはすでに14世紀半ばにはシシリアから亡命ギリシャ人が来訪し、ギリシャ語教育を受けることは可能であった。しかし、その時には、ギリシャ語教育はなされなかった。このことが示すように、ギリシャ語教育の背景には、それを受け入れる側の思想的な成熟が求められた。サルターティとブルーニの研究は、このことを明らかにするものである。 教える側の事情としては、クリソロラスに焦点を当てて、彼がフィレンツェに招聘された経緯を調べた。このことによって明らかになったのは、西ヨーロッパとビザンチンを媒介したヴェネツィアの重要性、招聘を巡ってフィレンツェのみならず他の国からもオファーがなされたという事実、そしてそれを利用してフィレンツェとの契約金を釣り上げたクリソロラスのしたたかさであった。ギリシャ語教育導入という思想史的な一大事件の背景には、このような人間くさい事情もあったのである。 さらに、教える側と学ぶ側を媒介するテキストについても研究をした。クリソロラスはErotemataというテキストを教科書として作成し、用いたが、研究を進めると、このテキストは異本だらけで、正規の飯が存在しないということがわかった。幸いにして、いくつかの版は、バイイェルン州立図書館などからネットで公開されているが、活字の読みにくさもあり、現物をじっくり読む機会を得ることが望ましい。これは、今後の課題となる。
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今後の研究の推進方策 |
ブルーニと並んでギリシャ語のイタリアへの導入に大きく貢献したグアリーノに焦点を当てる。彼は、クリソロラスがフィレンツェに招聘される前の、1388年から5年間、コンスタンティノポリスに単身で留学し、クリソロラスのもとギリシャ語を学んだ。そして、クリソロラスがフィレンツェ大学を去った後、その後継者として招聘された経歴も持つ。この招聘は失敗に終わり、その後彼は北イタリアで教育活動に専念することになる。グアリーノの従来の研究は、晩年の北イタリアでの活動を対象としたものが多く、若き日のコンスタンティノポリス留学についてはほとんど知られていない。本研究は、青年グアリーノがどのような経緯でギリシャ語学習に関心を持ったのか、コンスタンティノポリスにおける留学がどのようなものだったのかについて光を当てる。その際、イスタンブール(旧コンスタンティノポリス)にも赴き、関連史料を調査する。この分野に関する先行研究は少なく、場合によっては、調査の困難が予想される。その場合にも、Carlo de Rosmini, Vita e disciplina di Guarino di Verona e I suoi discepoli(1805年)Sabbadini編集のグアリーノの書簡集(1885年)といった古書のコピーを入手して、ある程度の成果は出すことができる。 また、グアリーノの教育論、及び彼と同時代の教育者ヴェルジェリオの教育論をラテン語から邦訳する。この翻訳は、東京大学出版会の企画として採用されており、2018年春には刊行される予定である。 学会活動としては、我が国での関連諸学会に加えて、オーストラリアとアメリカ合衆国の教育哲学会大会にて発表する予定である。
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次年度使用額が生じた理由 |
航空券が予想以上に安価なため旅費が若干余った。
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次年度使用額の使用計画 |
旅費に補充する。
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