戦後に発足した教育委員会制度について、地方における教育行政の実態を検討するため、三重県教育委員会に焦点を当てて、その活動を諸資料から跡づけることを試みた。特に被占領期においては、文部省から打ち出された諸政策に加えて、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)・民間情報教育局(CI&E)による指令が教育行政に影響を与えた。さらに日本を複数ブロックに分けて管轄した地方軍政部および担当官による係わりがあり、速やかに地方の教育行政を進めることは難しかったと思われる。 このような時代状況下における三重県教育委員会の諸活動を再検討した。教育委員会議事録を繙くと、委員会発足当時は様々な課題を抱えて出発したことが窺える。制度の導入後はゼロからの出発であったため、教育委員会にかかる諸規則の策定から取り組まれていた。そこから委員会組織の整備が進められた。議事録によれば、組織の構築および人事案件、高等学校の設置と学区制定、教員給与のベース設定など、何度も繰り返されて議論されている。給与など予算にかかわる事案については、国の方針や三重県議会との調整が必要であるため、当時において難航した課題であった。 審議のやり取りを検証すべく、議事録・教育委員会公報・県会議録・占領文書・個人文書を基本資料にして研究活動を展開した。文書の蒐集をはじめ、審議内容の筆耕作業のほか、個人文書の整理などを行った。扱う資料の分量が多く、多岐にわたったため資料集をまとめることはかなわなかったが、被占領期の教育委員会開催日時(定例・臨時)、委員および三重軍政部担当官の出席状況、審議事項の一覧表作成などを進めることができた。これにより教育委員会の活動を俯瞰することが可能になった。本研究課題の基本資料となるため、今後はこれらを活用・発展させて、論文や資料集など成果を出していきたいと考える。
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