研究実績の概要 |
日仏の首都における東京・パリ大学を中心とする国立大学拡張過程について、前年度までの政策形成・社会経済的背景に関する検討をもとに、今年度は学問的文化変容を探るために、国内外の「学問中心地」(J. Ben-David, 1977=1982, 有本章編, 1994)の比較という観点から、パリのカルチエ・ラタンに相当する地域が東京のどこにあるかという問いを立て、その歴史的形成過程をたどることを試みた。 江戸時代に本郷台地に沿った神田山を東西に掘り開いて神田川が開削され、その北岸に神田明神と湯島聖堂が移設され、南岸は駿河台と呼ばれて武家屋敷が建ち並ぶ町並みに発展した。明治期に入り、湯島の大学校設立構想が挫折し、神田一ツ橋にあった洋学機関が東京大学の源流となり、「専門大学校」への発展を期した移転が模索された後、神田お玉が池の種痘所を起源とする東京医学校が本郷に移転したのに続き、帝国大学設置に前後して本郷への集結が進んだ。湯島聖堂がある場所も神田区から本郷区に編入された。東京における「学問中心地」は、湯島から神田、本郷へと重心が移っていった一方、明治初期の「日本型グランド・ゼコール」群や私立専門学校が設立された場所が分散しており、互いに競い合っていった事実も認められた。 フランスの首都パリにおいて、12世紀に修道僧アベラルドゥスがサント・ジュヌヴィエーヴ山の教会で学問の名声を博した頃から形成されたカルチエ・ラタンが、何世紀にもわたってセーヌ左岸に閉じ込められたのに対し、東京の「カルチエ・ラタン」は、各時代の新たな社会状況に適応したアカデミック・ドリフトを伴って獲得されてきた拡張発展の過程であったことが理解された。 上記の内容を日仏両語で発表することを試み、年度末に研究期間全体にわたる最終報告書を作成し、日仏両国の関係者に配付した。
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