研究課題/領域番号 |
15K06411
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研究機関 | 愛知産業大学 |
研究代表者 |
石川 清 愛知産業大学, 造形学部, 教授(移行) (40193271)
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研究期間 (年度) |
2015-04-01 – 2019-03-31
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キーワード | 塔状住居 / 様式史 / フィレンツェ / 住宅建築 / パラッツォ / 都市形成史 / 中世建築史 |
研究実績の概要 |
本研究の項目は、1)塔状住居の取り壊し・衰退に関する建築史的考察(実地調査・原史料調査含む)/2)13世紀末の史料の記録された塔状住居(原史料調査)/3)塔状住居に見る彫刻部分の考察(実地調査)/4)塔に関わる門閥の契約と習慣(二次資料研究)/5)塔状住居の目的と形式/6)私的記録に残された塔に関わる門閥(原史料調査)/7)都市周辺領域における塔に関わる門閥(原史料調査含む)/8)塔に関わる門閥とフィレンツェ政府の成立との関係/9)中世末期の擬似パラッツォと公共建築における木製張り出し回廊、10)ルネサンス期パラッツォと個人居住区画に及ぼした影響(原史料調査含む)であり、平成28年度は、4)塔に関わる門閥の契約と習慣(二次資料研究)/5)塔状住居の目的と形式/6)私的記録に残された塔に関わる門閥(原史料調査)/7)都市周辺領域における塔に関わる門閥を解明することにある。 もともと多様な機能で用いられており、住居として用いられる場合には、攻撃・防御用の塔よりは間口がやや広く、壁厚もやや薄く、窓のやや大きくできていた。また、フィレンツェ都市外周辺部では周辺貴族がroccheと呼ばれる要塞や塔を築いていた。一般的にピエトラ・フォルテと呼ばれる砂岩で建設され、地上階の天井はヴォールト架構され、2階以上は木製の平天井であった。入口が防御上の弱点で、時にはアーチ状の入口もあったが、多くの場合は木製梯子で2階へアプローチした。塔状住居の場合も軍事的塔よりも窓が多く、最上階にはしばしばロッジアが載っていた。これらの最上階ロッジアはフィレンツェの典型的なパラッツォの先駆けとなったと考えられる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
役職の仕事の都合で渡航スケジュールが合わず苦慮した。 当初防御が最も重要であったはずの塔状住居の地上階に入口を設け、時には1階を店舗にレンタルしていた可能性が高い。また塔は常時生活するには室内空間が狭く、塔のレンタル契約の事例が居住使用を意図してなく、塔の鍵の所持に関する記述が常時生活していないことを物語っていると考え、人口過密の状態にあった13世紀フィレンツェでは塔が一時的な住居としての役割を果たしたのではないかと考えられる。 数少ない既往研究においては、Campagniは、政治執行部である6人のプリオーリ、6人の執事、6人の警備官たちが2ヶ月の間バディーア修道院のカスターニャ(Castagna)と称する狭い塔に身を守るために閉じこもったと記している。これは塔が非常時の仮の居住になったことを物語っている。また、1178年に15、16家族が1つの塔を建てることに合意していること、1180年の別の記録では少なくとも7つの異なった姓をもつ30人の家長が2つの塔の建設のためにともに働いたことが記されていることをSantiniは記している。また、Heerは塔に関わる門閥は血族がその起源であると主張したが、Lansingは塔の契約の存在から初めから血縁とは無縁であったと主張した。塔の門閥に関する記録の中には、1)自分の家族、妻の家族、4親等までしか守る必要がないこと、2)親族との争いを禁止していること、があることから様々な家族の混成している可能性が高いと主張した。少なくとも張り出し回廊が軍事的だけでなく、生活上の実質的な機能として必要であったことが実証できた。
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今後の研究の推進方策 |
まとめとして、平成30年度は分析が遅れている、塔に関わる門閥とフィレンツェ政府の成立との関係、中世末期の擬似パラッツォと公共建築における木製張り出し回廊の調査、ルネサンス期パラッツォと個人居住区画(アパルタメント)に及ぼした影響、を調査予定である。塔の組織化からその衰退、擬似パラッツォの成立状況の把握に努める。 塔に関わる門閥の重要な関心事の一つは、隣の塔と合体して拡大を目指すことにあった。塔に関わる門閥の契約の中には、非常に強力な忠誠心を示すものがある。明らかに近隣に強大な<家>があり、Sindingによれば、その背景には親教皇派と親皇帝派の抗争があるとする。塔や公共的防禦施設の取り壊しが市民の住宅建築への転換を容易にした。塔とその家族防御に対抗する市民建築の新しい様式の創造を試みたわけではなかった。プリモ・ポーポロはパラッツォ・デッラ・ポデスタとパラッツォ・デッラ・シニョリーアの塔を複合した最も完全な模倣物を建設し始めた。塔を組み込んだ見え透いた模倣は、私的な塔に関わる門閥とその施設がどの様にポポロ政府からどのように標的となり選出されたのかを証明している。彼らは塔に関わる門閥を敵対していたわけではなく、塔自体のの力には対抗した。プリモ・ポーポロは1255-1260年に大きな家系のレプリカとしてパラッツォ・デッラ・ポデスタを建設したが、その目的は個人的家族や組織ではなく、ポデスタと市民政府を保護することにあった。後にバルジェッロと称するパラッツォ・デッラ・ポデスタは、1260年にはポポロ政府の権力が低下し、しかも広場にではなくプロコンソロ通りに面していたために、その意図を十分伝えることができなかったが、それらの意図は1299年にパラッツォ・デッラ・シニョリーアを建設し始めた際に発揮できるようになったと私は考える。それらの実証データを本研究で補完したい。
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次年度使用額が生じた理由 |
研究遅延のため、次年度に研究計画を繰り越させていただきます。実施調査を中心に研究のまとめに入らせていただきます。
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