看護大学の学生5名、新人看護師、ベテラン看護師それぞれ1名の合計7名で自身の体験をもとに身体抑制について討議をおこなった。学生たちは学内での学びと臨地実習で遭遇した身体抑制の現実とのギャップに戸惑っていた。看護師にとっては患者を抑制するという行為が一連の作業のようになっていると感じ、憤りを覚えるが何も言えないまま時間とともに憤りも薄れていた。参加した看護師は、自身も学生時代には同様の思いを持っていたが、業務に流され抑制することが日常化している自分に気づかされていた。 この討議で明らかになったことは、看護基礎教育においても継続教育においても身体抑制と対峙する機会をつくることの重要性である。基礎教育においては正論や理論だけの講義にとどまらず抑制される患者の立場に立って感じられ、考えられる機会を提供する。臨地実習では現実を目の当たりにする、その体験を言語化させ、学生間で共有し臨地指導者、教員の考えなどを交えて、学生の体験を「教材化」することが求められる。 継続教育においても身体抑制が日常化し、看護師が考えることをストップしないようにひとり一人の患者について身体抑制の必要性、方法、解除や患者・家族の思いについて問いかける、問いかけられることが盛んなコミュニケーションが求められる。 また、身体抑制はルートやドレーン、チューブ類の誤抜去を予防するという患者の安全を守るために行われる。そのため看護師は常に患者の安全と人としての尊厳を守ること、安楽を提供することのジレンマに苦しみながら身体抑制の実施、解除を判断している。誤抜去などのインシデントが生じたとき、管理者から発せられる「なぜ抑制をしていなかったのか」の一言は「看護する」ことより「管理する」ことを優先している言葉ではないだろうか。管理者も自身の看護観と対峙する必要がある。
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