本研究では、当初の研究計画の一部にあった朝鮮半島における宣教医療の史料から障害者の歴史を探るという方法を断念し、植民地期朝鮮人医学者の優生学的言説を調査することで障害者に対する医師たちの態度を抽出することにした。 京城医学専門学校を卒業後、ドイツに留学した李甲秀(イ・ガップス、1899-1973)が中心となり、医学界、教育界、一般有志が集い、1933年に朝鮮優生協会が設立された。この協会には著名な朝鮮人民族主義者も含まれていたが、彼らの運動や機関誌を見る限り、また1945年以後の優生運動まで網羅的に見渡したとき、李甲秀がその中心にいたことは間違いない。1930年代から40年代の朝鮮優生協会および朝鮮人医学者たちの啓蒙的言説を調べた結果、次の3点ほどが指摘できる。 (1)朝鮮優生協会は啓蒙運動に終始しており、朝鮮での現実的な優生政策に関与していた証拠は見当たらない。 (2)朝鮮優生協会の代表的人物である李甲秀たちの主張は、積極的・消極的を問わず、優生政策論としては「穏健的」な主張にとどまった。つまり、急進的な断種肯定論や結婚制限論などの主張は見られなかった。 (3)優生協会に所属していた他の医学者たちについても調査を行った。当時、朝鮮医師協会の会長として朝鮮人医師集団をリードし、京城帝大医学部講師(生理学教室)として学問的なリーダーでもあった李甲洙(こちらもイ・ガップス、1893-拉北1950)も優生協会の幹部であったが、彼の啓蒙的記事は一般的な健康促進論、長寿論に終始し、そこには人間を選別した上での産児制限論や結婚制限論などは展開されず、朝鮮人一般の健康増進と民族の健康化が主張されていた。
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