中学校保健体育教師小田氏の「授業スタイル」は,中学校時代の恩師の影響により形成された教師像を基盤として,初任として採用されたC市立O中学校の8年間に形成された。それは,教える内容を明確にして開発された運動教材を用いて,子ども達に運動技能の習得過程を観察し記録させて練習の課題を理解させた後,子ども達に運動の課題を自覚した練習をさせて運動技能の上達を図るという「授業スタイル」であった。 採用9年目で転任したC市立P中学校の6年間は,生徒指導の困難を抱えた大規模校で,管理的な保健体育授業を実践せざる得ない挫折を味わった。しかし,6年目にそれまで開催されていなかった体育祭を翌年に開催する素案を提案したように,中学校時代の恩師の影響により形成された教師像は保持していたといえる。 採用15年目に転任したC大学附属Q中学校では,転任直後からE氏の支援でそれまでの自己の「授業スタイル」の根拠となる体育授業の理論を身に付けることになった。また,C大学附属Q小学校のF氏の体育授業を参観したことを契機として,小田氏の「授業スタイル」は,第1に「競争」を教える内容に設定する教育内容観,第2に教師が目標とした運動技能の評価基準を生徒と対話してすりあわせることにより,教師の目標を子どもの目標に転化させる指導観について変容した。 小田氏のライフヒストリーの事例は,中学校の恩師の影響による教師像が基盤となり,初任期に研修や前任者の残した資料や著作から学んだことを実践し,時間的な余裕のある職場で子どもの学習成果を振りかえることを契機として「授業スタイル」が形成されることを示している。また,中堅期にE氏やF氏というメンターとの出会いにより,自己のそれまでの「授業スタイル」の背景にある体育授業理論を自覚するとともに,新たな教育内容観や指導観を含む「授業スタイル」へ変容したことを示している。
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