18世紀末から20世紀前半までの西洋近現代音楽史、とりわけオペラ史を、資本主義的システム(すなわち、マルクスが提示する価値形態のマトリクス)によってもたらされる幻想の上演史として読み解くことを目的とした。 20世紀後半以降もオペラは文化政策の一環として制作されてはいるが、オペラの歴史は、事実上、調的和声システムの誕生とともに始まり、またそのシステムの崩壊とともに終わる。そのことは、オペラが調性という幻想的な支えなしには成立し得ないことを意味している。さらにその物語(台本)のレベルでは、同様に幻想的支えとして “愛”がつねに前景化されることになる。調性と愛の関係性がオペラにおいて、さらにはまたオペラをとおして、どのような機能を果たしているのかを明らかにするために、ケース・スタディとしてモーツァルトとダ・ポンテによるオペラ《ドン・ジョヴァンニ》について、おもに以下の分析を行った。 「ドラマ・ジョコーソ」と名づけられたこのオペラ自体が、オペラ・セリアとオペラ・ブッファという対極のジャンルの一致として構想されている。そうした逆説的一致は、主人公ジョヴァンニにおいて放蕩者(リベルタン)と自由主義者(リバタリアン)というやはり矛盾し合うものの一致に対応している。こうした逆説的一致は音楽的には、一対の主調(二短調と二長調)に認められる。ジョヴァンニは第二幕のフィナーレでニ短調からニ長調への転調と同時に、この二つの調の裂け目に転落するように死を迎える。一方、この裂け目は、いずれの側にも寄り添うことができない、このオペラにおいて唯一のジョヴァンニのアンタゴニストであるアンナにとって、彼女がくぐり抜けなければならない空想のための枠組みとして機能している。このようにモーツァルトは、調関係と物語(台本)を巧みに相関させることで、愛の形態を調的和声システムを通して浮き彫りにしている。
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