今年度は、研究成果として『古代書体論考』(京都大学学術出版社)をまとめることができた。漢字の書体名として「篆書」「隷書」という名称はあまねく知られているが、命名の由来は明らかでなかった。篆書や隷書という名称が最初にまとまって記述される文献は、『漢書』藝文志と『説文解字』叙、それに荀悦『漢紀』など後漢時代の史料である。『説文解字』叙によれば、葬新の時に六体があり、先んじて秦代には八体があった。このような書体の名称に関する先行研究として啓功『古代字体論考』があるが、啓功は個別の書体名を文献を中心にたどることに終始しており、一貫した体系としてとらえたものとはいいがたい。また近年には裘錫圭『文字学概要』が篆書や隷書に対して示唆に富む解釈を展開するが、それも仔細に検討すれば全面的に首肯できるものではなく、また裘氏の指摘をうけてそれを深めようとする議論もほとんどないのが現状である。書体名に関する従来の研究は文献の記述に偏重したアプローチのみであって、書体を近年の出土資料と照合し、その名称のよってきたる所以を考察しようとする方法はほとんど存在しなかった。 『説文解字』叙における書体の名称と次序を中心に、従来看過されてきた書体の命名にこめられた企図を体系的に探ることは、秦漢時代の書体を通じて、漢代の今文・古文対立の新たな側面が浮き彫りになった。 本書は、書体名称が前漢末期まで遡ることを指摘しながら、命名の背景に漢代の経学における今文・古文の学派対立が反映されているという新説を提示し、命名にこめられた企図を体系的に探ることによって、古代書体の全体像を明らかにすることを試みる。
|