大正年間から昭和初期において、山村地域の近代化と物流の多品種化、近代メディアの受容などが進んでいったことが、同村旅館に保存されている『大正七年諸荷物帳』、『大正拾参年壱月 当座帳』、売掛帳簿類などから明らかになった。まず、生活品の諸物価については、旅館で提供されていたビール1本75銭、ウイスキー1円80銭、羊羹50銭、酒3本1円5銭、仕入れ品や日用品としてみかん60銭、みりん30銭、商店への納入品として大根葉12匁で3円60銭、南京11匁で3円、などの記録が残されている。また、鰻代三百二十匁1円60銭、干アイ(あゆ)二十尾代3円などのように川魚だけでなく、かまぼこ2皿60銭、ニボシ四〇〇目一円80銭、カズノ子百目壱円、などの記録から、海産物も流通していた。新聞代8月分支払1円10銭、ラジオ聴取料3円(3か月分、昭和7年度)、「12月分新聞代および週刊朝日特別号及び画報」(昭和7年度)などの記載があり、近代メディアも次第に受容されて行った。上北山村の通商圏は、紀伊半島全域にまたがっていた。三重県尾鷲町から上北山村河合までひかれていた北山索道が物流理解のカギとなる。石油一缶を3円50銭の送料込みで運んでいること、三重県引本町の引本醤油から醤油8升4円80銭を、索道運賃1円50銭を払って仕入れていること、山村で貴重であったお米に至っては、三重県津市極楽町の精米商から一等米拾俵(600㎏)を元価百十円で購入し、伊勢津港太田回漕店の姫川丸により「おわし(尾鷲)港水揚げ」のうえ、索道運賃2円を使って仕入れていたことが「荷送り案内状」によりわかった。また、奈良県平野部からの運送については、大淀村北六田にあった吉野鉄道吉野駅前の荷扱い所から、東紀州街道に沿った川上村柏木の運送店を経て、上北山村まで生活物資などが運ばれていた。今後も遅々たる歩みかも知れないが、デジタル化と解読を進める。
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