最終年度の今年度は、大和郡山藩主柳沢米翁の『美濃守日記』、『宴遊日記』、『松鶴日記』、『高点如面抄』や、本多清秋の『丁々窩発句集』等、江戸座俳諧に関係する大名や江戸座俳諧宗匠を抽出し、データベース化を行い、その交友関係の一部を解明することができた。柳沢米翁と関係の深い大名子弟として、姫路藩主弟酒井抱一や伊勢神戸藩主本多清秋、松江藩主弟松平雪川、松前藩主弟松前文京(俳号泰郷)、松代藩主真田菊貫、米翁息子の米徳、同じく息の三日市藩信濃守里之(俳号珠成)との係わりが深く見られた。江戸座俳諧宗匠では、菊堂、秀国、亀成、珠来、米徳、存義、在転、保牛、晩得、常仙らの名前が挙がる。米翁や大名子弟と江戸座俳諧宗匠は米翁を中心に点取俳諧を介して交流を行い、互いに品物の贈答を頻繁に行っていることも明らかとなった。本多清秋との係わりでは、大名子弟の雪川、その父雪淀と係わりが深く、抱一の兄である姫路藩主酒井忠以(銀鵞)、伊予今治藩主松平甘棠ら大名子弟、江戸座俳諧宗匠では、易難、可因、其川の名が見られた。米翁と清秋は米翁の染井山荘で俳諧交流を行っており、二人の記録から俳諧がいかに交際の手段として大名間で行われていたのかを明確にすることができた。このうち米翁と係わりの深い江戸座俳諧宗匠菊堂の師、亀成は、江戸座俳諧と戯作を結びつける人物であることが明らかになった。亀成は松代藩主真田菊貫や尼崎藩主松平忠告(俳号亀文)らを後ろ楯として俳諧活動を行っただけでなく、見立絵本作者でもあり、亀成の『見立百化鳥』が江戸戯作の発想の源となり、山東京伝の多くの作品に影響を与え、同時代の戯作者朋誠堂喜三二も亀成を師匠として俳諧を行っていた。ここから大名を後援者とする俳諧交友が江戸文学を生み出す契機になったことの明証となった。米翁の日記は膨大な量を有するため、今後も引き続き大名俳諧を考察する上で、研究対象としていきたい。
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