研究実績の概要 |
平成27-29年度は,前衛的なモダニズム文学者だった中河與一を民族的全体主義者へと旋回させた思想的転換点の解明を目指し,中河が昭和4(1929)年前後に主張した形式主義論の変容を跡づけた。中河の形式主義論には〈必然→偶然〉という旋回があるが,そうした思想的旋回が,後に中河を,偶然性を胚胎した全体主義へと向かわせる転換点であることを明らかにした。 こうした研究成果を踏まえ,平成30年度は現象としての〈天の夕顔ブーム〉の戦前/戦後における実態解明を試み,戦前/戦後における「天の夕顔」の受容形態から見えてくる同時代思潮や人々の心性について考察した。 これらのことについては既に,「中河與一「天の夕顔」の批評圏―倉田百三の同時代評を中心に」(『語文と教育』32,2018),「中河與一と戦争責任―映画「天の夕顔」を起点として」(『鳴門教育大学研究紀要』34,2019)として,論考を発表している。 前者の論文においては,倉田百三のものを中心に,十数編に上る「天の夕顔」の同時代評を分析した。「恋人への愛」と「祖国への愛」を接続させる倉田の読み方は,「天の夕顔」に熱狂した若者達の読み方を方向づけたと考えられるが,「天の夕顔」は祖国のために命を「犠牲」にすることを合理化させる装置として機能する側面があったといえるだろう。 後者の論文においては,戦後の両義的な受容形態を析出した。映画「天の夕顔」(1948,新東宝製作)のクレジットから原作者名が排除されていたことに象徴されるように,〈中河與一〉という固有名が喚起する戦中の全体主義・民族主義のイメージが隠蔽される一方,〈メロドラマ〉として大衆に喧伝され,受容された。中河は,映画の公開直前にGHQにより公職追放の通知を受けているが,同論では,文学者の戦争責任問題に関する論議や,民主主義文学陣営による中河への戦争責任追及の声についても調査し,実態を解明した。
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