東寺本「弘法大師行状絵」に先立って成立した三つの系統の弘法大師伝絵巻との比較を行った結果、内容に少なからず異同があることがわかった。このことは、同じ弘法大師伝絵巻ではあるが、制作目的や想定する読者層の違いがあることを示唆している。この点については、先行諸本それぞれの成立背景を明らかにした上で、再検討する必要があるため、今後の課題としたい。 また、絵巻「弘法大師行状絵」から派生して、江戸時代には版本が、また明治時代には「弘法大師行状曼荼羅」が新たに生み出され、弘法大師伝の広まりに重要な役割を果たしていることに気づいた。そこで、当初の計画にはなかったが、絵巻・版本・曼荼羅という三つの媒体を総合的にとらえることにした。そして、絵巻が成立した南北朝時代にとどまらず、中世から近現代にかけての長い時代の流れの中で、弘法大師伝という情報体系がいかに作り上げられていったのか、編纂論という枠組みをさらに広げて、情報史という観点から検討を試みた。 絵巻「弘法大師行状絵」を編纂するにあたり、空海に関する様々な書物の中から絵巻に必要な部分を抽出し、詞書を撰述したのは観智院院主であった。その後も、観智院院主は庶民も視野に入れて弘法大師伝の普及を進めたのであり、情報の「発掘」・「総合化」・「普及」者として大きく貢献していたことが明らかになった。今回の研究から、現代の社会の中で、弘法大師伝や密教文化を広めていくための指針も得ることができた。
|