研究実績の概要 |
今年度主に明らかにしたのは、第二次世界大戦前、自動車製造事業法下における日産自動車及びトヨタ自動車の四輪車国産化における、日立製作所の電装品供給体制の構築過程についてである。まず、対日産向け電装品生産に関してである。日立製作所はそれ以前に自動三輪車向け電装品を生産しており、また、日産コンツェルンの一員でもあることから、日産自動車とは近い関係にあった。しかしながら、鮎川義介はすでに将来の自動車生産に向けて、東亜電機を買収しており、同社が当初電装品供給を行っていた。そうした中、日立の電装品供給は東亜電機だけでは賄えない分の補充という形で始まった。その後、日産コンツェルン内の再編において、日立主導で東亜電機を引き継いでいた国産工業との合併が実現し、以降、日立が日産自動車向け電装品供給を一手に引き受けることとなった。 一方、トヨタとの取引の経緯は下記の通りである。当時トヨタはデルコレミー社(米)製電装品を使用していたが、自動車製造事業法の許可会社となったことで国産部品の使用を求められる中で国産化を考え始めていた。日立が電装品開発の際に参考にしていたのがデルコレミー社製であったことや、それまでの実績もあり、日立製電装品が採用されることとなった。なお、トヨタは1940年に「外製部品内製切替命令」をだし、それ以降日立製電装品を内製に切り替えている。 以上の経緯で、日産、トヨタの両許可会社に電装品を供給することとなった日立は、ピークである1939年に年間24,000組弱の電装品生産を行った。この量産体制を構築する為に、日立は電装品生産用にフォードシステムを1938年以降導入した。それは、フォードイプシラント電装品工場の見学をもとに、数々の実験の結果実現したものであり、1939年には多賀工場を新設し、流れ生産に適したレイアウトを構築した。
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