本研究では、単純所持が表現の自由として保障されるかどうかという問題を素材にしながら、孤独な表現が表現の自由として保障されることを明らかにした。一般に、コミュニケーションを前提としない行為は表現の自由に含まれない可能性がある。しかし、アメリカやカナダの判例および学説を検討すると、表現の自由は国家が自宅内における表現物の所持、閲読、創造に介入してはならないことを要求し、孤独な表現を保障しなければ個人の自己実現が妨げられることが判明した。また、それはプライバシーとも相まって保障され、個人の尊厳とも結びつく。以上の原理は日本にも妥当するものであり、孤独な表現は表現の自由として保障されることを提示した。
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