本研究は、明治・大正期における公園政策において「身体」がどのように捉えられてきたのかについて(1)国民国家の形成装置としての「公園」の誕生(2)公園の運動場化と体育奨励政策の関係性(3)大正期における運動公園の誕生とスポーツの関係性、から明らかにしようとした。(1)については、明治期の国民国家の形成装置として学校や工場、会社そして地域社会といった近代がつくりあげた制度自体のなかに「擬制」として共同体が埋め込まれる形で社会統合が行われてきた。公園は、江戸時代の物見遊山や盛り場の名残をもちながら多くの人びとが集まる場所が明治初期に制度化され「公園」と称されることとなった。その後、明治30年代後半に都市計画とともに新たな公園が誕生し、利用者の関係性も第二次的である空間においては近代都市同様道徳秩序の維持が重要となる。そのため、身体は常に視覚的に捉えられ、禁則や園内施設・環境に応じた振る舞いを利用者は求められ身体を通して確認された。この点は、当時の「公徳心」を問う新聞記事や文学作品において確認することができた。(2)については、公園の運動場に加え、日本体育会による運動器具の設置という出来事を中心に検討を行った。特に日本体育会の機関雑誌では、同会の発展とともに体操教員の養成だけでなく、多くの人びとの身体を強壮にすることが目指されていることが再三記事に登場している。あわせて、同会の活動が評価される形で国庫補助金の交付が公園への運動器械設置時期と同時期に行われていた。公園という空間は誰もが自由に利用でき、自らの意思による振る舞いが行われているようにみえつつ、実際は気づかないように強制力が網の目のように張りめぐらされている。明治政府や公園設置者、日本体育会が意図した以上の機能が公園に付与されたことが明らかになった。 (3)については、運動公園の誕生自体を明らかにできず今後の課題となった。
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