本研究では、江戸時代に製造され、俳画や公文書に用いられた和紙製品を対象に、近赤外分光分析法(NIR法)を用いて、非破壊で迅速な材質計測を行うことで、その経年劣化機構を明らかにし、和紙製古器物の保存と修復のための有効な方法を探索することを主な目的としている。本年度は、先ず阿波藩中村家・賀島家文書から近世の文書資料177点と現世和紙試料(約300点)を収集し、成立年代と文書記載内容のデータベースを作成した。これらを用いてNIR法とMIR(中赤外)法による材質計測とデータの予備解析を行なった。現世試料との比較の結果、近世の古文書和紙では、その主要化学成分であるセルロースの非結晶領域と準結晶領域およびヘミセルロースの順に大きな劣化が観測された。一方で、セルロース結晶領域と及び全糖量を表すホロセルロース量の減少は軽微であった。これは、和紙の構成成分が絶対量として減少せず、元来、強度への寄与が低い部分で優先的に低分子化が起こることを示しており、和紙の保存性の良さを裏付ける知見である。またセルロース結晶領域では、分子内水素結合の位置によって劣化に差が見られた。紙の材質劣化の主要因として、大気中水分の関与による酸性化が考えられている。この結果は、経年変化によるセルロースの立体構造の変化を示唆するもので、現代の洋紙も含めて今回初めて得られた知見である。こうした分析は従来、化学的な糖定量分析とX回折法などの物理計測を併用して初めて得られるものであったが、NIR法を用いることで、非破壊・極短時間(1試料2分以下)での構成成分と材質の同時計測が可能となった。また、重水素置換透過NIR法による木質材料の劣化解析の予備実験に着手した。その結果、木質材料の経年劣化では、細胞壁の超微細構造(Åオーダー)での開裂現象が確認された。今後、これを本研究での資料に適用し、古文書和紙の経年劣化機構をより詳細に明らかにする予定である。
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