平成17年度の調査・研究の一は、松坂氏の射和文庫に関するものである。明治5年3月に日本発の湯島「博覧会」を終えた後、5月に文部省の蜷川式胤は関西方面宝物調査で射和文庫に立寄り、竹川竹斎(文庫創始者)の手がけた万古焼を高く評価し(蜷川『観古図説』)その後明治12年に自ら収集した万古焼創始者沼波弄山の作品を写し竹斎に送っている。一時途絶えた沼波の万古焼を竹斎は父が記録していた作法をもとに復元し、自らを正当な後継者と称し、有節万古と対立した。竹斎の由緒書等を利用し、「幕末期竹川竹斎の諸事業と万古焼」と題し、沼波の郷里である桑名で4月に報告した。 その二は長崎の出島に関するものである。松坂の豪商角屋三郎右衛門も出島を築いた25人の出資者の1人であるが、この出島の絵図の中に、川原慶賀が描いた1845〜50年ごろの図で、ビリアード場のそばに「鉄棒」とおぼしきものが描かれている。これより少し前の出島図には「鉄棒」はなく、円形の芝生のみが描かれ、近くにはシーボルトがたてたケンペル・ツェンベリー記念碑が見られる。シーボルトの着任は1823年であるから、この図はそれ以降のものである。「鉄棒」の所在はこれまでの出島研究では指摘されたことがないが、出島という狭い空間に起居する商館員の健康管理に用いられたと考えられる。その設置者は医師であるシーボルトであったろう。 又、出島図には「バドミントン」が描かれたものが数点存するが、それらは17、8世紀に描かれたものが元になっている。バドミントンは1875年に競技化されたから、出島図の「バドミントン」図はバドミントン成立以前のものとしなければならない。それはインド発症の地プーナというスポーツであり、バドミントンの祖型をなすものであるという新説を唱えた。 その三は、堂野前種松氏(1869〜1955)が大正年間模写した法隆寺金堂壁画図の発見で、今尚調査中である。
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