近世後期から近代にかけてのロシアの極東進出と北方世界の関係では1859年の東シベリヤ総督ムラヴィヨフの日本におけるサハリン島交渉に関するロシア語資料を解析したことが最大の成果である。特にアムール委員会の議事録からロシアのサハリン島進出に関してプチャーチン提督とムラヴィヨフ東シベリヤ総督の間に決定的な対立が存在したことを論証できた。また文久期の竹内使節団のサンクトペテルブルグにおける交渉においてロシア側が北緯48度線の分界に同意する可能性が極めて高かった点を明らかにした。さらに1865年の東シベリヤ総督コルサコフの上奏報文である「サハリン島の支配に関する活動と現状の概況」を検討して、コルサコフのサハリン島の進出がムラヴィヨフ東シベリヤ総督の政策を継承してものであることを明確にした。 日清戦争から日露戦争までのロシアと清国の関係の変容と北方世界の関係の分析では、以下の点を明らかにした。第一に、ロシアの北緯38度線における中立地帯の設定が極東委員会の議長であるアッバスによって主要には提案されていたこと。それゆえ、アレクセーエフ極東太守とアッバスが日清戦後の極東政策において強硬派であったことが明らかにできた。第二に、中東鉄道の意義をロシア語資料だけでなく、中国の研究動向を把握して解明する手がかりを得た。現段階では、中国側の研究成果が極東や北東アジアの国際関係と必ずしも一致していない点が多々見られ、今後、中国側の研究の根拠となっている資料との対照をさらに進める必要があると思われる。第三には、ロシア国立極東文書館において当該期のサハリン島に関する諸資料を閲覧した。特に、サハリン島の関税状況からロシアの極東におけるサハリン島の意義を明確にできる契機を得ることができた。第四に新聞資料に関しては「国民新聞」を中心に収集し分析した。
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