河南民族博物館は、中華民国時代の1927年に河南省教育庁によって計画され、翌年28年5月に設立された機関である。1930年11月に河南古物保存委員会に併入され、河南博物院と改称された。「民族博物院」と称されたのは、2年7ヶ月ほどのわずかの期間であったが、私はこの博物館の存在を近年まで知ることはなかった。旧河南民族博物館所蔵の甲骨片は、この博物館の院長であった何日章が中心となって発掘を行っている。1929年10月21日に発掘を開始し、その後1930年4月までに2度発掘を実施。発掘品が中央に運ばれず、河南省の博物館に収蔵されるようになったのは、河南省の関係者による発掘であったためと想像できる。 先行の著録には、収録されていない甲骨群と思われたが、『殷墟文字存真』というごく少数出版された著作に一部の資料を収録していた。著者は、河南民族博物館の建設にも関わった、関百益という人物である。この初集の表紙には「開封関百益選拓、開封許敬参考釈、民国21年初版」とあり、1931年に出版されたことがわかる。値段は50元と極めて高価な資料集である。その後一〜五集と八集が出版されたが、途中の六・七集は資金的な問題で出版されなかったようである。当初の計画では、1集に100片を収録し、全部で800片を収める予定であった。この顛末は、『河南民族博物館館刊』第七・八号に詳しく記述されていることも確認できた。 拓本には「河南民族博物院蔵」の収蔵印が押印しているものがある他、採拓した画仙紙を裏打ちし、骨の形に切り取ったものもある。これらは、前節で挙げた『殷墟文字存真』を作成するために採択した可能性が高い。裏打ちした拓本がその証拠となるが、『存真』は、日本・中国・台湾の三国にそれぞれ数カ所保存されているのみの原拓集であり、実地調査から拓本を裏打ちした後に厚紙に貼り付けていることが確認できている。中国古代史の研究に重要な意味を持つ資料であることが明らかにできた。
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