本年度の研究実施計画に基づき、以下においてその実績の概要を説明する。なお、下記の番号は、科学研究費補助金交付申請書において提示した研究実施計画の番号に対応する。 1.在朝鮮日本人医学者の漢方医学への関心と具体的な取り組み(2004年度日本科学史学会年会において発表) (1)京城帝国大学(以下、「京城帝大」と略する)医学部薬理学講座教授の杉原徳行は、漢薬の薬理効果研究だけでなく、漢医学の哲学的原理である陰陽五行説に対しても理解を示した。彼は五行説を切り離した陰陽説が医学的に妥当であることを主張した西洋医学者として、植民地期朝鮮医学界最高権威として君臨した。ただし、その背景には、西洋医学だけでは戦時期の「新秩序建設」に「不利である」という政治意識があった。 (2)京城帝大の漢薬研究は、薬理学第二講座開設だけでなく、生薬研究所(1939年)や済州島試験場(1943年)の開設にみられるように、医学研究部門においては突出して制度的に拡大していった。これは戦争体制における「大陸兵站基地」としての朝鮮が医薬品製造の任務を負ったことに拠る。具体的な実務は、杉原徳行が主導的立場で遂行していた。 2.植民地期朝鮮における医療の定量的・定性的把握 植民地期朝鮮において、医師(西洋医)数は年々増加したものの、医生(東洋医)は年々減少する傾向にあった。医師と医生を合わせた医療者数の人口比(人口1000人に対する医療者数)は、年々減少し、1942年には0.29という数まで落ち込んだ。なお、医師だけの人口比は増えていくものの、1942年の段階で0.16であり、日本が同年に0.75、台湾が0.36であるのに比べると、驚くほど低い数字となっている。この理由については、検討中である。 3.東西医学研究会の活動 1924年に設立された東西医学研究会に関しては資料が乏しい。岩手県水沢市での調査により、『会報』創刊号と『月報』1冊を入手できた。これだけでは活動の全貌を把握することは難しいが、東西医学の比較検討の域に達する論文はなく、西洋医と東洋医の執筆者たちが個別ばらばらに論を披露するというレベルにとどまっている。 4.1930年代漢医学復興運動の思想と行動 当時の新聞を調査することにより、細かな講演会や活動の記録をすべて把握することができた。 5.本主題に関する韓国での先行研究はないことが明確になった。しかし、関連領域の論文などは収集整理中である。
|