研究課題
基盤研究(C)
以下、研究計画書の示した項目にしたがって、概要を報告する。1.植民地期医療者を医師(西洋医)と医生(漢医)と定義するならば、その人口比(人口1000人に対する数)は年々減少していった。2.医師だけの人口比は増加するものの、1942年段階で0.16であり、日本が同年に0.75、台湾が0.36であるのと比較すると、驚くほど低い数字になっている。3.官道立病院における朝鮮人患者数は植民地期を通じて、大きく変化している。1910年代前半の急増と以後の急減、20年代の停滞、30年代中葉からの急増。しかし、人口比から言えば、日本人患者の方が圧倒的に多い。4.東西医学研究会の設立には諸説があるが、1921年11月に設立趣旨書と規則を発表した。この研究会の目的には、伝染病予防に対する医生の責任と東西医学の併用が明記されていた。5.制度的に抑圧されていた漢医学は1930年代に、漢医学の復興と大衆化を目指す運動を展開した。6.植民地期に朝鮮で出版された漢医学書の書誌データは集めることができたが、どれも入手困難であった。しかし、現在の韓国でも趙憲泳『通俗漢医学原論』(1934)はハングルで出版されている。7.在朝日本人医学者は概して漢医学を蔑視していたが、京城帝大医学部教授の杉原徳行は例外的に陰陽説の一部を西洋医学的見地から認めた。8.朝鮮人医師たちは日本人医師とは独自に『朝鮮醫報』を発行、ゼブランス医専を中心にして民族保健運動を展開した。彼らは1930年代東西医学論争において朝鮮人漢医と医学論で対立したが、一方で漢医に共感的な姿勢を示した医師もいた。以上の具体的考察・解明を通じて、植民地朝鮮医学史に帝国日本全体の視点が必要であることが確認できた。また、東洋医学と西洋医学の知的相克が後者の圧倒的な制度的優位の中で展開されており、1930年代に初めて論争として登場することも確認された。今後は植民地期医学研究の中身に入って考察する。
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National Institute of Korean History
ページ: 246
韓国近現代科学技術史シンポジウム・プロシーディング
ページ: 27-38
Proceedings of Symposium, Modern Korean History of Science and Technology