研究課題
基盤研究(C)
人間存在には本質的な二面がある。一つは、「人は一人」という原初現実がある。人はかけがえない唯一性の個体である。二つは、人間は男と女の間に生まれ、家族をはじめとして人々の間で生きる人間である。人間は社会的存在である。この二面に渡るのが友愛なのである。従って友愛には両義的な曖昧さが付きまとう。そこで人間の成長と友愛の成長は軌を一にしている。親子の友愛に始まり、楽しい遊び仲間の少年時代、人生の入り口に立つ青年期の友愛、独立した人格の大人の友愛。しかし鉄壁の孤独に縛られた人間が真理と善を共有しようとするとき生まれるのが哲学を共有する友愛であって、ソクラテスの対話問答を支えていた。見知らぬよそ者は不安にする。その不安を消すにはよそ者を消すこと。こうして社会から抹殺してきた。しかしいまひとつの方式をギリシア人は知っていた。よそ者を友として歓待して飲食を共にすることである。それはおよそどんな人間も偶然と運命の力の元では無力であり、最後は死に屈服する悲惨を免れない、という人間理解によっていたのである。人間の悲惨を共有することで生まれた友愛の姿であった。旧約聖書のアブラハムによるイサク殺しは戦慄を呼ぶ謎であるが、神は予見不可能性の無限の深淵であり、イサクを殺すときアブラハム自身が死んだということである。しかし自己に死んだとき、アブラハムはイサクが自分の子ではなく神に守られている神の子であるという超公共系の現実に開眼したのである。そして新約聖書の「よきサマリア人」の譬えは、人間の悲惨の共感から生まれた歓待の純粋形であるが、「誰が」「誰を」助けるか、ということさえ消えて、つまり自己が消えることで超開放系の出会いとなったのである。以上のことが示すのは、愛は半ば死に裏打ちされてこそである。アリストテレスはそれを別の面から指示している。アリストテレスは所有を「自分のものでなくすことができる自由」と分析した。他人に与える贈与に所有の最後的な意義があったのである。所有の極みは身体である。こうして「我が身体」は他人に与えられることに真骨頂があった。献身の美徳がそうであり、「友のために死ぬ以上の愛はない」のである。イエスの十字架が友愛の彼方に見えることとになる。
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The Meaning of Passions-Abraham, Jesus, Paul- (The University of Tokyo Publishers)
「哲学・科学史論叢」 7
ページ: 1-48
Archive for Philosophy and the History of Science 7