1.シュタインの『国家学体系』(1852年)にシュタイン自身が書き込んだ大量のメモ書きを解読して、シュタインが国家学を展開する上で、またこれを学生に講義する際に、どのような文献を参考にし、それをどのように解釈したかが明らかになった。 2.社会学としての国家学というシュタインの国家論における、カント・フィヒテ・ヘーゲルの影響を探り、そこにシュタイン独自の人格態概念が成立する過程を明らかにすると当時に、シュタインがみずからの人格態概念を社会のなかで生かす具体的な方法としてアダム・スミスの『国富論』から多くを学んだことが明らかになった。 3.シュタインがウィーン大学で1855年から85年までにおこなった講義を調査すると同時に、当時の法学・国家学部の科目編成を調査して、シュタインの講義が当時の学的状況のなかでどのような位置を占めたかを解明した。すなわち、1855年のトウーン・ホーエンシュタイン教育改革によって実現した「財政学」「国民経済学」に加えて「行政学」と「法哲学」をシュタインは担当したが、同時に、キール時代に担当し、またみずからの学問体系の柱にしていた「国家学」が徐々に解体していくことにもなった。 4.シュタイン国家学が現在持つ意味を探って行くと、「国家」概念が曖昧になりつつある現在をシュタイン国家学が逆照射する働きを持つことがわかる。また、シュタインが展開した行政学はいまや国際行政学としてさらに発展される必要があるが、そのような方向性をシュタインは元来持っていたはずであった。それがなぜ十分機能し得なかったのかが今後の課題である。さらに、シュタインの国家学において「自治」が脆弱である点も気になる。というのも、社会国家は、下手をすると、国家社会主義になりかねないからである。その点の解明も今後の課題として浮き彫りになった。
|