南方中国においては、戦国時代以来越人の流入が多く、その独特の習俗であった呪鬼の風が広く伝えられた。これは禁架・禁呪とも称され、呪言をもって鬼神を役使し意のごとく作用させるとも、あるいは呪言を誦す際の吐気に効能があるともいう。『後漢書』方術伝や『抱朴子』には「越方」と記され、治病や災厄の消除に効果をあらわしたという。一般的には、「劾」と呼ばれる同様の方法が存在するが、もとは「越方」よりでたものと考えられる。いずれにしても、南方中国には北方にはなかったこのような呪鬼の方法が存在した。 南方文化の伝播に大きな役割を果たしたのは長江である。北方の黄河流域の文化と南方の長江流域の文化の相違は、その風土や民族性の相違として理解されてきたが、特に南方文化に限れば、異文化の流入も重要な要素となろう。たとえば『楚辞』のなかには、多くの神々や神話・伝説が描かれるが、それらは、多くが楚の国の巫祝のもつパンテオンとして理解されてきた。しかし、そのなかには霊魂が空を飛んで移動すること、気を養い強化することなど、「越方」と類似した技法が見られる。 従来、『楚辞』は、多く儒数的理解によって解釈されてきた。ことに屈原の伝説によって、その内容は著しく歪められてきたといえる。この研究では、南方の信仰を理解する手がかりとして『楚辞』をとり上げ、それを新たに解釈しなおすことで、歌謡の中に記録された信仰の実態を明らかにする基礎的作業を行った。武漢大学楚文化研究所の現地調査によって、楚文化に関する多くの資料を得たこと、また台湾の中央研究院歴史語言研究所での調査によって、『楚辞』の解釈に影響を与えた近代学術の動向をも考慮にいれて、成果の一部を公刊した。
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