今年度は、アリスティデス・クィンティリアヌス(AD3C)の『音楽論』全三巻のうち、第一巻について、精密な文献学的考証を施した上で翻訳した。当巻はアリストクセノスの「ハルモニア原論』及び『リズム原論』の忠実な祖述を意図して著作されたもので、アリストクセノスのテキストの大部の散逸部の補填として不可欠の貴重な作品である。しかし、アリスティデス当人の思想の論理的な甘さの故に、論述は無意味な錯綜に陥っている部分が多く、理論的な補正を随所で施さなければならなかった。今回の研究実績は、まず、当巻を理論的に首尾一貫した論述として再構成した点に認められる。当巻におけるリズム論の部分(後半)は当面の直接的な主題ではないが、ハルモニア論の理論構成との対応が認められるので、そのかぎりにおいて採り上げて、考証の参考に付した。 理論的に特に重要なのは、8章と9章の末尾に付加的に言及されている各種のハルモニア(オクターヴ種)の総括的な説明である。両者はそれぞれ独立の別種の典拠によるもので、内容的にはかなりの間隙もしくは食い違いがある。アリストクセノスのテキストに残る断片的な言及を照合しながらその間隙を考証すると、一つの一貫した歴史像が描き出される。今回の考証では特にその点に留意して、古代ギリシアの音階の発展史の叙述にある程度の見通しをつけることができた。 もう一つの大きな論点は、10章のトノス論である。それによれば、アリストクセノスのトノスは近代洋楽に言う調tonality (key)に相当する。トノスにかんする叙述はアリストクセノスのテキストにおいては完全に散逸しているので、通常はこれを典拠にして調に相当するという見解が成立しているのであるが、何故にアリストクセノスにおいて調に相当する概念が現れているかを説明する納得の行く理論は未だ成されていない。今回の研究においてはアリストクセノスが敢えて調に相当する概念を導入することによって、エートスの違いを消去したいという歴史的な見通しを立てることができた。
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