「日本」イメージは、映画がまだ主として記録媒体として存在していた時期においては、「実写」に近いものであった。が、物語を語る映画という形式が登場してくるにつれ、「日本」のイメージはアジア諸国全般の折衷的なイメージのなかへ包合されることになる。より強くいえば、アジア諸国のイメージが断片的に重ね合わせられた無国籍で漠たるイメージの一つのパターンとして「日本」はイメージされはじめたようである。しかしながら、他方、19世紀後半から、日本発信のセルフ・イメージが、戦略的に刺激的な方向性のもとに組み立てられていたということも事実としてあったようである。そのような、受け入れられやすい「日本」イメージが、物語を語る映画形式のなかに流れ込んでいったようである。 したがって、暫定的な成果としては、西洋諸国の一方通行的な権力的なまなざしにおいて「構築され歪曲された」イメージが形成されたのではなく、双方向的な「日本」イメージ交換のなかで「日本」のイメージ、とりわけ、映画における「イメージ」が形成されてきたという結論である。 本研究は、その時点で一旦理論的な枠組みを軌道修正する必要に迫られた。ポストコロニアリズム理論それ自体が出来してきた戦後の文化研究の経緯を再考するため、「日本映画」という、日本で制作され日本から発された視覚文化実践が、アメリカにおける「日本映画」理解、ひいては「日本映画」理解にどのような軌道を与えていったかについて調査研究をおこない、異文化研究に関する理論的な再検討をおこなうという軌道修正であり、研究プロジェクトの後半は、それにあてられた。
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