美術作品の制作者名は、後世まで正しく伝わらないものが意外に多い。一般に仏師と呼ばれる仏像制作者の名前についても同様で、運慶や快慶(安阿弥)作と伝えられた遺品は各地にある。これらの仏像は、大方が別の仏師の手になるものであるが、そのような仏像でも、特定の仏師に関わる一種のイメージを伝えている場合がある。しかしながら、仏像作者名の伝承は時には忘却や改変が起こり、また新たな「名付け」が生じることも多い。そして、こうした「名付け」は自然発生的に起こる訳ではなく、そこには何らかの要因が存在しており、時にはかなり意図的な変更が行われることさえある。 本研究は、仏像の作者名の伝承がどのように形成され、また新たな「名付け」が行われたのかといった問題を通して、過去の人々が仏像とそれを造った仏師のイメージをどのように捉えていたのかという、いわば過去の歴史の仏像と仏師の受容史を語ろうとすることである。そこで、本研究では、京都及び鎌倉に関わる近世地誌類から、仏像制作者に関わる記事を抜き出し、そのデータを入力し、京都及び鎌倉における近世の仏像制作者伝承のデータを取り纏め、資料集の作成を行った。この資料集の作成の成果に基づき、定朝、運慶、快慶といった一部の仏師については、当初想定していたように、仏師に関わるイメージが近代に至るまで伝えられるものがあったことを明らかにした。ただ、仏師名の多くは忘却されてしまうことも事実で、この問題は近世の仏像受容の問題と大きく関係していることも指摘される。なお、本研究の成果として、本研究を総括する研究代表者(根立)の論考及び調査協力者の筒井忠仁の論考、さらに先の資料集を併せ収録した報告書を刊行した。
|